■ 白川の関 (福島県白河市)
 1689年新暦6月8日、白河の関を訪ねる。
 気持ちだけが先立って落ち着かない旅の日数を重ねているうちに『白河の関』に来て、旅を続けようと言う気持ち
も固まった。
何とかして、都の人々にこの素晴らしい景観を知らせたいと機会を探した昔の人々の話も当然である。数ある関所
の中でもこの白河の関所は、奥州3関の1つであり(歌枕としても有名なこの地を)風流人が訪れて、様々な感動を
伝えている。
 能因法師が詠んだ『秋風』を耳にし、源頼政が詠んだ『紅葉』の姿を面影に浮かべながら目の前の青葉の梢は、
やはりしみじみと感じられるものである。
 今は、卯の花(ウツギ)が真っ白に咲き、そこに野バラが加わってまるで雪の中にいるようだ。
古人、竹田大夫国行がこの関所を越えるとき冠を被り直し衣装を改めたなど、藤原清輔の筆でも書き置かれたと言
うことだ。


 卯の花をかざしに関の晴着かな  …曾良
(旅のこととて晴れ着は無いが、せめてこのあたり一面に咲く卯の花を晴れ着の代わりに飾りとしてこの関を越えることとしよう)
『夏は来ぬ』でも歌われている卯の花=ウツギ 白河の関跡碑
 白河の関の入口と案内図     Map
 白河の関はどこか? 諸説が有ったが白河藩主・松平定信がこの地と特定し『古関跡碑』(左上の写真)を建立した。その後の発掘など
により土塁跡などが見つかり関の跡としての遺構が見つかった。
※手前の幌掛けの楓は、八幡太郎源義家が、藤原氏討伐の前九年の役のときに立ち寄り神社前の楓に幌を掛けて休んだと言われている。
ただし、この楓は植え替えられたもの。 その後ろに有る石の柵で囲まれているのが古関跡の碑。
 神社の前にある『古歌碑』
芭蕉が引用した歌は次の3つ。
都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞふく白河の関 …能因法師(後拾遺集)

都にはまだ青葉にて見しかども紅葉散りしく白河の関 …源頼政(千載和歌集)

見て過ぐる人しなければ卯の花の咲ける垣根や白河の関 …藤原季通(千載和歌集)

また、古人冠を正し、衣装を改し事など の項は次の通り。
藤原清輔の著書「袋草紙」の一節『竹田大夫国行というもの、陸奥に下向の時「白河の関過ぐる日は殊に装束をひきつくろい向かう」と言う。
人、問う「何んらの故か?」答えて曰く「古へ因能法師の『秋風ぞ吹く白河の関』と詠まれた所をば、普段着にては過ぎなん」と。殊勝なる事か。』

 又、別カテゴリーで取り上げますが、芭蕉が追慕した源義経が鎌倉に向かう途中で寄った場所でも有り、ゆかりの物が残っています。
左上は矢立ての松。石碑の下に小さい株だけが残っていますが、義経が戦勝を占う為松の木に弓矢を射立てたと言う松。
右上の写真の右手の桜は旗立の桜。 皆が手を回しているのは義経とは関係有りませんが「従二位の杉(樹齢800年)」。
 中腹辺りにある『奥の細道白川の関』の碑。
 芭蕉が白河の関を訪ねたのは、関所が廃されてもう4-500年が経っていた。後年松平定信によって古関跡と言われる現在の白河の関跡を
訪ねはしたものの、別の見方で白河の関では無いかと言われている『関山』にも寄っています。関山は標高619mの山で山頂に満願寺が有
ります。 時間と体力の関係で上まで登っていませんが、白河の関から右手の道路に入り途中「関山」の標識から田んぼの中の細い通りに
入り、関山小学校の手前を左折すると関山登山口に出るので(写真右上)、そこから細い山道を恐る恐る車で入ると程なく駐車場に出ます。
↑左上の写真が関山全景。  
Map

芭蕉が通った時も既に『白河の関』は奥羽(東北)地方の玄関口の代名詞になっていたようです。そして、それは中央からはかけ離れた辺境の
地でもあり、イメージとしては外国並みだったかも知れません。
 現代でも高校野球などで良く『今年も白河の関は越えなかった!』などと東北地方に優勝旗が渡らない意味で使われていました。
愛読している当地宮城県の地方紙に『河北新報』と言うのが有ります。この新聞の『河北』も明治の代に入っても『白河以北一山三文』と卑下さ
れたことに対する反骨精神で名付けられたものでも有ります。