■ 須賀川 (福島県須賀川市)
 1689年新暦6月9日ついに白河の関を越え、奥州に踏み入った。阿武隈川を渡る。左に会津磐梯山が高くそびえ
、右に岩城・相馬・三春の庄、常陸・下野の地を国境として山が連なっている。影沼(鏡沼)と言う所に行った。
(・ここ
には「吾妻鏡」の中の和田平太胤長にまつわる伝説や一種の逃水(蜃気楼)現象の伝説がある。)

しかしこの日は、空曇っていて物影を見ることはできなかった。
須賀川の宿駅に入り、須賀川本町の相楽等躬宅を訪ねて、4日5日と引きとどめられた。
 真っ先に、「白河の関をどのように越えましたか
(※どんな句を詠んで来ましたか?)」と尋ねられたので、「長旅の苦労で
心身ともに疲れ、一方で風景に心奪われ、昔の話に腸を切られる様な感動を受けて、しっかりとした発句を作る気持
ちになりませんでした。


 風流の初(はじめ)やおくの田植えうた
 (風流を味わう最初の出来事となったことですよ、奥州の地で聞いた田植え歌が。=等躬への挨拶の句)

何も発句を作らず白河の関を越えるようなことも、何と言っても」と話すと、この発句をもとに3巻の連句としてしまった。

 この宿の傍に大きな栗の木陰頼りとして、俗世間を嫌い住まいする僧がいる。西行法師が「橡拾う(※)」と詠んだ
深山もこのようであったかと思われて紙に書き付けた。
 栗と言う字は西の木と書き、西方浄土にゆかりが有ると行基菩薩さまが一生杖にも柱にも栗の木をお使いになった。


 世の人の見付けぬ花や軒の栗
 (地味なので、俗世間の人々の目には止まらない花だ。この庵の軒近くの栗の木は。=味わい深い暮らしをしているのだなぁこの僧も)
  
 (※)「山深み岩にしただる水とめむつがつ落つる橡(とち)拾ふほど」 …西行法師・山家集
 (山奥に住んで、岩から垂れ落ちる僅かな水を飲み、とち木の実を食べて生活する。⇒誰にも煩わされず、自然の中にそっと生きる。)
 冬の猪苗代湖と、会津磐梯山。 須賀川城址、二階堂神社。
 相楽等躬宅は、現在は元NTTの敷地。 ↓直ぐ傍の本町軒の栗通りの角が小さな公園になっていて、等躬の像も
有る。(※等躬は通称を伊左右衛門といい、俳号は等躬(窮)のほか、乍単斎、藤躬などを号としていた。)
芭蕉と曾良の像
 可伸庵跡地。

可伸庵宅は、等躬宅より4-5軒南の裏通りに有った。
現在は、元NTT須賀川支店の西側に復元整備されて
いる。
 写真右上、左が『世の人の…』の句碑。

 須賀川での、奥の細道探訪は須賀川市役所敷地内の芭蕉記念館
(写真、左下=岩瀬寺・八幡社跡地)を起点にすると良い。駐車場利
用可。そこでガイドブックを手に入れ、散策に出ると市役所入口の向
い側に右下の様な大きなイラストマップが有り、他所から来た者には
心強い。
 市役所入口前の通りを真っ直ぐ進み、直ぐ右手が可伸庵跡への細
道をになりますが(ここだけですが)案内標識が有ります。
十念寺の入口付近の交差点には、芭蕉行脚の図が有ります。
 市内のスポットには、俳句の投稿ポストが設置されていて、須賀川
市の『奥の細道』への力の入れ方がはっきりと分ります。
(写真:右下の右側に小さな写真で紹介しています)
 芭蕉記念館(6/10訪問の岩瀬寺・八幡社跡地) Map
 6/15訪問の十念寺。 ↓門を入って直ぐ右手に芭蕉の『風流の…』の立派な句碑が有ります。
これは、当地の女流俳人・市原たよ女(1766年生まれ)が80歳の時建立したもので、芭蕉句碑としては最大のもの
と思われます。境内の左手お堂前には、たよ女が90歳で亡くなった時の辞世の句碑が有ります。
  終に行く 道はいづくぞ 花の雲
 十念寺境内の日本最大級の芭蕉句碑『風流の…』  芭蕉が参った神炊館神社
 等躬が眠る長松院。 境内に あの辺は つく羽山哉 炭けふり の句碑が有り、裏手に墓があります。