■ 境の明神 (栃木県那須町・福島県白河市)
 1689年新暦6月7日、遊行柳を見た後『白河の新関』であるここ境の明神を越して、みちのく入りをした。
曾良はこの白河の新関には二つの神社が建ち並んでおりその前に茶屋があったと記している。
その後、芭蕉が敬愛する能因と西行が通った旧関(現在白河の関と呼ばれている)を訪ねる為、旗宿へ向かい
一泊の後、旧・白河の関を見ている。


 関守の宿をくいなに問おうもの …曾良
 当時の関東と東北の国境であるこの地(現在でも栃木県と福島県の県境)に境の明神があります。 Map
奈良・平安の初期には、国境の明神に男女二神を祭るのが通例だったそうでこの地でもこの様式で祭られています。
この二神は、内側は女の神様(玉津島明神)が守り、外側は男の神様(住吉明神)が守ると言う考え方です。
となるとややこしい話ですが、上の写真の栃木側は『境の明神(玉津島神社)』と明記されていますが、福島側からは
こちらの神社は住吉神社になります。
 ここから白河領の碑が県境に立っています。
 こちらが、福島県側の境の明神。明治時代に道路が掘削されて階段で神社に登るようになっていますが、以前は
道路が同じ高さだったそうです。
 境内には句碑が建ち並んでいます。
手前の大きいのが思楽句碑(本名は島谷栄吉、明治期に活躍した福島の俳人・飛脚問屋)の句で
  卯の花や清水のすえの里つゞき
 
 奥の方に、余りに石が”立派過ぎて”判読が難しいですが安永6年(1777)に白河藩士・玉生旭窓(本名・忠八)により
建てられた芭蕉の『風流のはじめや奥の田植え歌』句碑が有ります。
 福島県側の境の明神の向いには『白河二所の関碑』が有ります。
『関跡と藩界』の著者・岩田孝三氏がここが古関の跡であると指摘し建立したもの。
みなみに、この石碑の有るお宅が当時の茶屋の跡らしく、そのご子孫の建物らしいです。