■ 深川辺り 深川芭蕉庵・採茶庵 | |
芭蕉は江戸に出てきて、初め日本橋の繁華街に住んで俳諧の力量を発揮し、「桃青」と 言う俳号を名乗っていました。水道工事などにも携わりながら過ごし、34歳で談林派の 俳諧宗匠(お師匠さん)としてプロの道に入った。 言ってみればお金に余裕のある人達の道楽の世界。 弟子たちの俳諧を採点したりして採点料を稼ぎ、熱心な門人がパトロンとなって世話を見て 貰うことになる。 当時の俳諧は、今の俳句とは違い「和歌(短歌)のパロディ版」の連歌なので、グループと なって人が集まり、毎日面白おかしく笑い合いながらやっていた。 やがて、その談林派もネタ切れで人々に飽きられて来る。 段々そんな自分に疑問を持ち始め、「昭和枯れススキ」の文句『いいえ、世間に負けた〜 ♪』状態で郊外の寂れた場所に移住しようと、当時深川で魚の養殖をしていた門人の魚の 番小屋の一つを提供して貰い住む事にした。 植物の芭蕉(バナナの一種)を植えた事から『芭蕉庵』と呼ばれ、芭蕉自身も『芭蕉』と名乗る ようになりました。 ここで、滑稽さを売り物とする談林派から離れた芭蕉独自の作風を作り上げ始めます。 一番最初の芭蕉庵は住んで二年後に火事で丸焼けになり、その後、弟子達によって再建 されました。 ここを本拠とし、「古池や蛙飛びこむ水の音」等の名吟の数々を残した。 芭蕉没後、武家屋敷となり幕末から明治にかけ消失しますが偶然大正6年(1917)津波 襲来のあと芭蕉が愛好したと言われる石像の蛙が発見されここに芭蕉稲荷神社を建立、 大正10年に東京府により「芭蕉庵跡・芭蕉翁古池の跡」と認定された。 尚、この場所が狭隘なため、近くの場所に芭蕉記念館を建設した。 上の写真は、芭蕉稲荷神社境内の『芭蕉庵跡』、『古池や…』の石碑。 |
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深川芭蕉庵旧知の由来説明版 | |
昭和56年に芭蕉記念館が完成。 | |
記念館に有る 『草の戸も住み替はる代ぞひなの家』の 句碑。芭蕉庵を去るときの句。 住んでいた草庵も住み変わる時が来た。 今度は雛人形も飾る華やかな家になるだろう。 |
庭には芭蕉庵のミニチュア版が建立されて います。 |
草庵脇に、『ふる池や・・・』の句碑 | 草庵の中に芭蕉像 |
平成7年に分館が稲荷神社の脇に芭蕉庵史跡展望庭園として開館しました。 芭蕉像と、芭蕉庵史跡庭園から見た船出の想定地・(青い橋)清洲橋辺り。 |
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ここで、管理人が在住の「仙台」の名前が付いた堀が出て来ます。 地図の下手、東側に江戸時代仙台藩の倉庫があり、コメなどの特産物を運ぶ運河として 掘削された。 一番下に、関連施設のマップを載せています。 仙台堀の「採茶庵」で旅の準備をして、仙台藩内まで北上したのは、何かご縁があるような 感じがしますね。 芭蕉庵を売却し、「奥の細道紀行」の準備のため清州公園の近くにある「採茶庵(さいとあん)」 に移り住んだ。 芭蕉と曾良の二人と、見送りの同人たちが採茶庵を出て多分青い橋・清洲橋の辺りから船に 乗り、千住に向かった。 |
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「採茶庵(さいとあん)」のレプリカ | 芭蕉像 |
関連施設の地図 | |
★ おくのほそ道『序文』と みちのくへの紀行の動機は こちら をご参照ください。 |
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(注)この頁は、2017.2.11自分が撮影した写真で再編集いたしました。 理由:当初、東京在住の「東京のJyoさん」から御親切に関連写真をお届け頂き その写真を多用して構成していたため。 |
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