■ 『奥の細道』序文と旅立ちの動機

 月日は百代(はくだい)の過客(かかく)にして、行きかふ年もまた旅人なり。舟の上に生涯を浮かべ、
馬の口とらへて老を迎ある者は、日々旅にして、旅をすみかとす。古人も多く旅に死せるあり。
予もいづれの年よりか、片雲の風に誘はれて、漂白の思ひやまず、海浜にさすらへ、去年(こ
ぞ)の秋、江上の破屋(はおく)に蜘蛛の巣をはらひて、やや年も暮れ、春立てる霞の空に、
白河の関越えんと、そぞろ神の物につきて心を狂はせ、道祖神の招きにあひて、取るものも手
につかず。
ももひきの破れをつづり、笠の緒つけかへて、三里に灸(きゅう)すうるより、松島の月先づ心
にかかりて、住める方は人にゆづり、杉風(さんぷう)が別しょに移るに、
草の戸も住みかはる代ぞひなの家
面八句(おもてはっく)を庵の柱にかけておく。
 
【現代語訳・概略】

 月日は旅人である。人生もまた旅人である。古の人たちもたくさん旅に死んできた。私も物に
つかれたように、旅に出たくてどうしょうもなくなってきた。
 旅支度をしていると、松島の月が真っ先に脳裏に浮かんでくる。
住んでいた家は他人に譲り、別れの句を柱に掛け置いた。
 
私の住んでいた草庵も住み替わる時が来た。季節も雛祭りの時期、今度は雛人形を飾るよう
な華やかな家になるだろう。

 
   
【現代語訳】
 

 月日は永遠に旅を続ける旅人であり、来ては去り、去っては来る年もまた同じように旅人であ
る。船頭として船の上に生涯を浮かべ、馬子として馬のくつわを引いて老いを迎える者は、毎日
旅をして旅をすみかとしている。古人の中には旅の途中で命を無くした風流人が多くいる。私も
いつの年からか、ちぎれ雲が風に吹かれて漂うように誘惑されて、旅に出て歩きたい気持ちが
我慢できず、海や浜辺をさすらい、去年の秋、隅田川の畔を破れ小屋において蜘蛛の巣を取り
払って暮らしているうちに、次第にその年も暮れ、春になり霞(かすみ)が立ち込める空を見るに
つけても、あの名高い白河の関を越えようと、人の心をそわそわさせる神が取り付いて私の心
を狂わせ、道祖神が招くような気がして取るものも手につかない。旅行着の破れ目を直し、笠の
紐(ひも)を付け替えて、足に灸をすえると、あの有名な松島の月の美しさが真っ先に気にかか
って、住んでいる家は他人に売却し、杉風の別宅に引越しする時に、句を詠んだ。
「草の戸も」の句を発句とする連句の初めの8句を草庵の柱に掛けておく。
 
【奥の細道への旅立ちの背景】
   
 松尾芭蕉は下級武士の出身だったが主君に俳諧の道でその才能を認められた。しかしそれ
は長く続かなかった。主君が急死してしまい、新しい主君は全く俳諧に興味は無かった。芭蕉
の武士としての出世は諦めざるを得なかった。
 芭蕉は俳諧に精を出し、談林派(だんりんは)全盛の当時、芭蕉も江戸に出て活躍し頭角を
現しトップクラスに上り詰めた。
しかし又、その談林派も人々から飽きられ人気が低落、井原西鶴は小説の世界に活路を見出
していったが、芭蕉はあくまでも俳諧の道を進もうとする。
 努力の甲斐があり俳諧の世界で成功を得て、弟子が増え収入も増えるが、弟子の指導など
に時間を取られて自分自身を磨く時間が無くなってしまう。
  
40歳を過ぎてもう人生はそう長くは無いと感じれば感じるほど文学の世界に自分なりの俳諧を
高めて歴史に残したい。生活を文学化する為には『旅』が一番良い。
しかも、死を覚悟するような俗世界から遠ざかるようなぎりぎりの環境での旅が良い。自分を極
限の世界に置くことにより理想とする、本当の俳諧の世界が見えてくるに違いない。
 その為には、北の最果て『東北地方』が良いと考えた。その昔いわば異国の地の様なその地
は、西行などが旅をし、しかも伝説や歌枕、風光明媚な地が沢山あり、万が一にも旅の途中で
死んでも悔いは無い。むしろ誇りとなろう。
 
 旅に病んで夢は枯野をかけめぐる
 
この句を詠んで、旅の途中で死のう。旅立ちを決心した時に浮かんできた句であった。
 
 松尾芭蕉、46歳。同行者、河合曾良、41歳の時の弥生三月、芭蕉の心の旅が始まった。