■ 新潟県・上越市 高田 その1
  
◆その1(いろは姫物語) …この頁
その2 高田城跡
その3 高田の街並
  
  上越市は大きくくくると直江津地区と高田地区に分けられる。
高田は、上杉謙信が築いた春日山城に代わって築かれた福島城を廃し1614年に築城された高田城の城下町である。
 仙台の伊達政宗ら13諸侯により築城され、初代の城主は徳川家康の六男・松平忠輝である。
そして、その松平忠輝のもとには、伊達政宗の長女・五郎八姫(いろはひめ)が嫁いでいる。
いろは姫(五郎八姫)物語
 「古い町並み」の趣旨からは外れますが、管理人居住の仙台ゆかりで少しだけ歴史的な話を書きます。
○五郎八姫(いろはひめ)について
 五郎八姫は、政宗の長女で母は正室愛姫(めごひめ)。1594年に生まれた。政宗は男子の名前しか用意していな
かったとか或は生まれた女の子に男名をつけると次は男子が生まれるという俗説から、五郎八姫と名づけたと言う。
五郎八姫は、徳川家康の政略結婚として5歳で婚約、1606年に12歳で家康の子で越後高田60万石の城主である
松平忠輝に嫁ぐ。
 ところが、忠輝は大阪の陣に遅参したとして1616年改易(所謂お家取り潰し)となり、伊勢朝熊に配流となってしまう。
 
 五郎八姫(22歳)は、この時忠輝と離縁し、江戸屋敷で4年過ごした後、仙台に帰った。五郎八姫は再婚すること
なく(クリスチャンの影響か)仙台城内の西屋敷で16年過ごした。西屋敷に住んだので「御西様」と呼ばれる。
政宗が亡くなると、城下の青葉区下愛子栗生の屋敷に移り住んだ。若い時は熱心なクリスチャンだったと言われて
いるが晩年は(65歳)日本三景・松島の瑞巌寺洞水和尚の手引きで髪を落とし、天麟院と名乗った。
その3年後、1661年5月8日68歳で没した。
伊達政宗により再建された伊達家の菩提寺・瑞巌寺の西側、天麟院(臨済宗)に五郎八姫の霊屋はある。
   
高田城跡の前に『カトリック高田教会』があり、ここに『いろは姫のステンドクラス』が飾られています。
カトリック高田教会(ホームページは こちら )
マリオ神父様
   
 私自身はクリスチャンでは有りませんので、「教会に入ってよいものか?」、「ステンドグラスを撮影しHPに載せてよいものか?」心配でした。
教会の入口に到着し、取り敢えず建物の写真を撮影していると『こんにちは!』と、教会のホームページでお見受けした神父様が出ていらっしゃ
いまして声を掛けていただきました。これから別なところで説教しに行かれるとの事でしたが、少しお話をさせていただきました。
仙台から「いろは姫」のステンドグラスを見に来たことを告げ、撮影及び私のホームページで公開する許可を頂戴しました。
更に、マリオ神父様ご自身の写真も!   ご快諾いただきまして、大変有難うございました。
( 青葉城<仙台城>跡と、伊達政宗の騎馬像 ) ( 日本三景・松島 )
( 伊達政宗の再建、菩提寺・瑞巌寺 /松島) ( 五郎八姫の仮霊屋 /天麟院の奥 )
  ところで、禁教令が出された1612年の翌年、1613年に伊達政宗はヴァチカンのローマ法王パウロ五世に謁見する
為に、慶長使節団を派遣する。仙台藩内での布教を許可することを条件にイスパニアとの通商許可を求めたものであ
ったが願いは叶わなかった。
  
【一口メモ】
松平忠輝(1592-1683年)
 徳川家康の六男。母は、側室・茶阿の方。生まれたばかりの”可愛くない”顔した鬼っ子・忠輝を見て、一言『捨てよ』
と言われる。4万石の大名・皆川広照が引き取り育てられる。8歳の時子のいない徳川一族の長沢松平家一万石の
家督を相続、いろは姫と婚約。以後、下総佐倉5万石、信濃川中島14万石、越後福島(上越市直江津)45万石となり
高田に移転。
 武芸に優れていて、伊達政宗らに将軍候補として推されたり、キリシタン大名達に推されたりとの噂が流れ危険分子
として扱われる。高田城完成の年、1614年大阪冬の陣が起きるも忠輝は江戸城の留守を命ぜられ、これを不満として
幕府の命令に従わずに高田城から出ないで、やっと伊達政宗の催促を受けて江戸城に入城。
直系なのに外様大名並の処遇に怒っていて、この後も将軍家とのトラブルが絶えず、ついには兄・二代将軍秀忠により
領地没収(改易)されてしまう。⇒昭和62年(1987年)になってから徳川家から赦免される。
 
 家康の命により、縁組させられた伊達政宗の長女「いろは姫」もまた時代の波に翻弄された。
離婚後、伊達政宗は娘を引き取り、哀れみ、庇護した。