芭蕉が見たかった
   ■ 緒絶橋(おだえばし :大崎市古川) 姉歯の松(あねはのまつ :栗原市金成)
   
 平泉に向かおうと、歌枕として有名なあねはの松や緒だえの橋などがあると伝え聞いて行ったところが、人の足跡
もまれで、猟師やきこりなどだけが行き交う道、どうなっているか分らず遂に道を間違えて石巻に出た。


と、記されている芭蕉が見たかった幻の歌枕の地、『緒だえの橋』と『あねはの松』とはどんな所かを紹介します。
◆緒絶橋 宮城県大崎市古川・南町   Map
緒絶川は、平安時代に嵯峨天皇に寵愛された『おだえ姫』が都を追われ、会えずに過ごす毎日を悲観しこの川に
身を投じたという悲恋伝説が残っています。
 平安時代には緒絶橋の名は悲恋の歌枕となりました。緒絶橋の袂には左京太夫道雅の歌碑と、芭蕉の句碑が
建っています。

 ※元、この川は江合川の本流が流れていましたが東側に進路を変え川筋が残りました。『玉の緒(=いのち)』が絶えた川、緒絶川と呼ばれ
架けられた橋が緒絶橋と呼ばれ平安の時代から歌枕として(悲しい恋の)使われるようになったそうです。ちなみに、地名・古川は古い川の上に
出来た町並みから来ているとのことです。
 緒絶橋のたもとに立っている歌碑は、後拾遺和歌集・左京太夫道雅の歌が刻まれています。
みちのくの をだえの橋や是ならん ふみみふまずみ こころまどはす

 また、隣の小さな石碑には、松尾芭蕉が深川大橋で詠んだと言われる「初雪やかけかかりたる橋の上」から取った
初雪や 雪かかりたる 橋の上』が刻まれています。※

 ※ 上の句が欠けた石碑『掛かりたる 橋の上』と刻まれていたものがこの地に残っていたので、上の句を足したもの。
 今は、”恋”ならぬ鯉が泳ぐ小川になっています。
◆姉歯の松 宮城県栗原市金成姉歯   Map
 伊勢物語で在原業平により『栗原のあねはの松の人ならば、都のつとにいざと言わましを』(※)と歌われ、
平安朝物語文学では、みちのくの歌枕とされるなど、古来よりその名が知られていたのが「姉歯の松」です。

 義経記にも「あねはの松の名木を御覧じては松山道を越え、秀衡が方へは近く候理にまげて此のみちに掛か
らせ給うべし」と記され、義経もまたこの松を褒め称えていたことがわかっている。

※ あまりに器量の悪い女に惚れられてしまった在原業平がこの歌を使い縁ギリしようとしたが、理解してもらえずむしろ『愛しているよ!』
と誤解されたと言うエピソードがあるそうです。
歌の意味: 姉歯の松が人ならば、都に連れて行きたいものよ(=それは、出来ない。松を女にかけ、貴方は連れて行けないとしたもの)
 伝えによれば、用明天皇の御代に全国から「女官」を選んだ時、陸奥国の代表となったのは奥州気仙郡高田
の豪農の才媛の誉れ高い娘『朝日姫』だった。

 郷土の栄光と名誉を担って、船の旅に出た朝日姫であったが、途中大嵐となり、船を降りて陸路を進めねば
ならなかった。しかし、姉歯の里にたどり着いたところで重い病気になり息を引き取ってしまう。最後まで都に思
いを馳せながら逝った哀れな朝日姫を姉歯の人たちは丁寧に葬ったという。

 その後、朝日姫の妹である夕日姫が代わりに都へ向かうことなり、旅路の途中で姉歯の地に立ち寄った。
悲運な姉の事を思うとなかなか立ち去る事が出来なかったが、墓に松の木を植えて墓印とした。薄命の姉を思
い夕日姫が植えたこの松が、姉歯の松なのである。

 この姉妹の話が、歌枕として詠まれる様になった。
 姉歯の松碑。 上記の様な由来と賞賛の内容や、地域の人々が後世に残す為碑文を依頼された、等が漢文で
書かれています。
 歌碑も有り、在原業平などの4つの歌が刻まれています。
 場所は少し分りづらいです。東北自動車道・若柳金成(かんなり)ICの近くに有り、金成総合支所前の通りを南下し右折又は左折して
姉歯地区に入り西側の山を巻くように進むと上のような所に出ます。道路の右手に小さな案内板が有ります。宮城交通・姉歯の松停留所
のところです。二台ほど止められる駐車場が向かいに有りますが、入口の理容店のものかも知れません。