■ 松島        日本三景松島 1 雄島
 1689年新暦6月25日、芭蕉と曾良の二人は、塩釜から舟で日本三景松島に着いた。
  
 だいたい言い古されたことであるが、松島は日本第一の美しい風景であって、中国で名高い洞庭・西湖に比べても恥かし
くない。湾内は東南の方角に向き、湾の中は3里もあって、中国の名高い浙江のようである。島々が数限りなく浮かんでい
て、その中の高くそびえている島は天を指差すかのようであり、横たわっている島は波の上に腹ばっているようである。
あるものは二重・三重に重なって見え、島々は左の方に分かれているかと思うと、右の方につながっているように見える。
まるで子や孫を背負っているような島もあり、抱いているような島もある。
 松の緑は色が濃く、枝葉が潮風に吹き曲げられて、その曲がった様子は自然と曲がったように見える。その松島の様子
は、物静かで奥ゆかしいものであって、美人の顔を美しく化粧したようである。神代の昔に、大山祇の神がなした仕業であ
ろうか。造化の神の働きは、いったいどんな人が筆を振るって描き、言葉で言い尽くすことができようか、いや出来はしない。

雄島が磯は、陸続きで
(⇒実は少し離れている)海に突き出た島である。雲居禅師の別室の跡や座禅した石などがある。
また、松の木陰には俗世間を捨てて住む人たちの姿もごくまれに見えて、落穂や松笠などを燃やす煙が立ち昇る草庵で
(※)
心静かに住んでいて、どういうひとか分らないが、特に心引かれて立ち寄っているうちに、月が海に美しく映って、昼の眺め
がまた改まった。
曾良は句を詠んだが、私は句も詠めず、眠れない状態だった。

 芭蕉は、ついに松島で一句詠むことは無かった。俗に、芭蕉の句とされている『松島や ああ松島や 松島や』の句は、
後世の人が、芭蕉が絶句した気持ちをパロディ風に詠んだ物。松島では、同行の曾良が一句詠んでいる


松島や鶴に身をかれほととぎす…松島よ。ここでは鶴がふさわしい風情なのだから、鶴に身を変えてくれ。今鳴いているほととぎすよ。
   

◆関連地図  雄島Map   瑞巌寺・五大堂Map   参考:上記写真撮影場所 松島の見所[四大観] 大高森
 高台の西行戻りの松と、そこからの松島の景観。 右上の写真の中央陸続きに見える一番右の島が雄島。
雄島の全景 短い橋で島に渡る
島全体が修行の場であったのでこんな景観が見える。 『頼賢の碑』 ここ雄島の妙覚庵、頼賢を称えた石碑。
中世日本三古碑の一つといわれている。国の重文。
雲居禅師の座禅堂(把不住軒) 芭蕉碑と曾良の句碑
妙覚庵跡 …こちらは江戸時代以降の見仏堂の跡地  直ぐ近くの低地にある場所のここに以前、見仏堂が有ったとされる
  
見仏上人は、1104年に鳥取県から雄島に渡った僧で、開山の慈覚大師を除き、一番著名な高徳の僧は雄島に住した
見仏上人であろうと目された人物であるが瑞巌寺の住職となることは無かった。雄島は、鳥羽上皇から松の苗木千本
等を下賜された。これにより雄島が「千松島」と呼ばれそれが松島全体を「松島」と呼ばれるようになった言われとの事。
雄島は「御島」と表記され、島々でも由緒ある島である事から雄(ゆう)なる島=雄島となったようです。
   
(※)落穂や松笠などを燃やす煙が立ち昇る草庵 と芭蕉が記したのは見仏堂を指しているとの事です。
   
◆『千住物語』のお嬢さんデザインの芭蕉と曾良、松島の防火活動に活躍!!
 瑞巌寺から、JR東北本線松島駅に向かう途中に、塩釜消防署・松島分署が有ります。平成16年秋、芭蕉・奥の細道出立の地、千住でホームペ
ージを運営されている『千住物語』jusinさんの芭蕉イラスト(お嬢さんが作成)が火災予防に登場していました。
 消防署の方が見初め、松島高校美術部の皆さんが看板に描いた物だそうです。
仙台から宮城県第二の都市石巻に向かう国道45号線沿道にあり、松島町民ならず多くの人の目に留まります。
時を超え、松尾芭蕉と曾良が、出立の地・千住と松島を繋いでくれました。(H16.12.4)