■ 義経、平泉へ
                                    (↑ 義経ねぎらいの場。藤原まつり・毛越寺庭園)
 馬を急がせ、平泉に着いた吉次は藤原秀衡に義経をつれて来たことを告げる。
秀衡は風気味で床に伏せていたが起きて、次男泰衡と三男忠衡ふたりをよびよせ義経を迎えにやった。
 義経が到着すると、『私の家来18万騎の内、8万騎を奉りますので残りの10万騎は二人の子供達に賜りますよう』と
申し出た。

 京の都人からすれば、奥州・平泉は辺鄙の地で有ったと思われるが一頁目にも記載していますが『浄土思想』に基
づき金色堂で有名な中尊寺(↓)を中核とし毛越寺(↑)、宇治平等院を模した無量光院を配し地域全体を理想郷とし
て造営したこの平泉は荘厳華麗な文化の花が咲いていたのでした。
 
 義経の度量を気に入った秀衡は義経を我が子の様に可愛がった。また、父の味を知らない義経にとってもこの老人
を父の様に慕ったに違い有りません。
中尊寺・月見坂 中尊寺・本堂
金色堂 無量光院の跡地

■ 義経、再び平泉へ。そして
 義経の活躍と、兄・源頼朝との確執の結果辛い逃亡生活を余儀なくされる話題は別な頁で語る事とするが、最終
的にまた平泉に義経は戻ってくる。
藤原秀衡は失意の義経を暖かく迎え入れ宴席をはり、所領を贈り、北上川を見下ろす高台に館・高館(たかだち)を
建てた。

 この辺のところは、『義経公東下り絵巻』を再現した春の藤原祭り[行列:例年5月3日]として現在も行われています
ので往時を偲ぶ事が出来ます。
後に、仙台藩主伊達綱村が建てた『義経堂』 北上川と、衣川方向
   
 義経が平泉に戻った事は直ぐに鎌倉の知れる事となる。
平家を滅ぼし西国を手に入れた頼朝にとっては、鎌倉の敵はもはや奥州藤原氏だけになった。
頼朝はことを急がず、再三に亘り義経を差し出すよう要求するが平泉は拒んでいた。
 その年の10月、秀衡が死んだ。臨終の床に義経、国衡、泰衡を呼び寄せ義経を大将軍とし兄弟力を合せ鎌倉に
対峙する様遺言した。
  
 その後も、矢継ぎ早に鎌倉からの義経追捕が届き、泰衡は動揺する。
年も明け、1,189年4月に泰衡の軍勢が高館を襲う。武蔵坊弁慶はじめ少数の人数でこれに応戦、衣川の河原に下
った弁慶も全身に矢を受け、立ち向かう軍勢を睨み付けながら絶命した。世に言う『弁慶の立ち往生』である。

 妻子と過ごしたこの二年ばかりの穏やかな日々、義経は覚悟した。妻子と共に自刃し31歳の生涯を終えた。

 義経の死後三ヶ月を待たずに源頼朝の軍勢が鎌倉を出て、平泉に向かう。迎え撃つ奥州軍と福島県伊達郡で激
突(関連頁)することになるが泰衡は敗走、平泉に戻り更に北へと逃走するも9月3日、35歳の哀れな末期を迎えた。
ここに、平泉・奥州藤原家も滅びた。

 三代の栄耀(えいよう) 一睡のうちにして、大門の跡は一里こなたにあり。<中略>
 杜甫の詩『国破れて山河あり、城春にして草青みたり』を思い出す<中略>
 『夏草や 兵(つわもの)どもが 夢の跡』                    …松尾芭蕉・奥の細道より