■京の義経 生誕と鞍馬山 そして『みちのく』へ
 1159年の夏、我らが牛若丸が産声を上げた。
父は、源義朝(みなもとのよしとも)。母は、京都中から顔立ちの良い少女1,000人を集めそこから美人100名が選ばれ
更に10名に絞り最後に日本一の美女として一人選ばれた『常盤(ときわ)』である。
 その年の12月、父・義朝は平清盛の軍に敗れ、東国に敗走してしまう。
 
 都に居ればこの子達の命は危うい。身を隠す他ないと1160年1月17日の朝早く、常盤は三人の子供をつれて大和
へと逃げる。途中、京都清水寺の子安堂・子安観音(↑)に寄り無事を祈願したのであった。
雪の中を幼い子を連れて都を逃れる様は、画材として良く取り上げられる。写真は、弘前ねぷたの絵。
 
 やがて、常盤の母が捕われたとの知らせが入ってくる。常盤は悩んだ。このままでは母が可哀相だし、さりとて表に
出れば子供たちの命が危うい。悩みに悩んだ末、常盤は京都を目指して出かけた。
 絶世の美人をこの目で見てみたいと言う平清盛の”男心”が自ら詮議をし、「母を助けて、幼い子の命も救って」と泣
訴する常盤の儚げな姿に心奪われ、三人の子供は仏門に入れることを条件に助命したのである。

 常盤は、平清盛の子をもうけるがその後は平清盛の計らいで一条大蔵卿・藤原長成の所に嫁すことになる。
 乳飲み子の牛若丸は暫く母常盤の元で過ごした。七歳の時(義経記)牛若丸は、鞍馬山に入った。
ここで、経を読み、本を読み勉学に励み師(東光坊)も感嘆するほどであった。
 勉学に打ち込む牛若丸が一変したのは、15歳の頃、父義朝につかえた鎌田正清の子、鎌田正近(正門坊)との出
会からである。鞍馬山を訪問した正門坊は牛若丸にそっと耳打ちする。
『貴方は源義朝の御子、今は平家の世になり源氏一門は国々に押し込められています。悔しいとは思いませんか?』
  
 平家討伐、毎日これを考えるようになった牛若は昼間は本を読む振りをして夜に鞍馬山の奥の「僧正ガ谷」で武芸
に励むようになる。(写真:右上)  写真:左上は、稽古に向かう前に参った大杉大権現。

 いくら隠れて行動してもいつかはバレルもの、やがて東光坊に知れるところとなる。
激怒した東光坊は、「このことが六波羅(平一門の居場所)に知れたらただでは済むまい。常盤の願いにもそむくし自分
にも又咎めが及ぶ。直ちに髪を剃って出家するように」と、命ずるも牛若丸は刀を構えて抵抗する。

 かくて牛若丸は『遮那王(しゃなおう)』と名前を変えられ覚日坊の律師の厳しい監視下に置かれる事になる。
我が夢を実現する為には鞍馬を出奔するより他ならない。遮那王はそう言う思いを強めていった。
 源氏の再興を思いつめた遮那王は密かに鞍馬山を出て奥州平泉に向かった。
手引きをしたのは『金売り吉次』、受け入れたのは『藤原秀衡』でここに義経にとっての第二の故郷ができる事になる。
 
 ここで疑問が出るのは何故、身を寄せたのが遠くみちのくの平泉だったか?と、言う事になります。

その前に奥州藤原家とはどんなものだったか。
初代清衡の父経清(つねきよ)は平安の後期に国府の官人として奥州に下った。二代基衡(もとひら)は「前九年の役」「後三年の役」(※1)
の時、鎮守府将軍・源義家に従い奥州全域(現在の東北六県)まで支配地を広げた。
ここに登場する三代秀衡は、豊富に産出する砂金を使い、中尊寺を核として「黄金の都」、この世の『極楽浄土』をここに建設しようとした。
この浄土思想に基づく平泉の文化遺産を『世界遺産』に登録すべく現在申請中です。

 ひとつは、母・常盤が嫁いだ長成の親戚筋・藤原基成
が宮城県多賀城市の多賀柵に赴任し、そのままその地
に留まりその娘を平泉の藤原秀衡に嫁がせている。
義経が、この藤原基成を頼ったとすれば母・常盤の意向
が働いた事になる。
 
 二つ目は、藤原秀衡の心に都人からどうしても蔑まされ
る辺地の血筋ゆえ『源氏本家の貴種』に憧れていたか。
或は源氏の嫡流を擁して、天下に号令する野望があった
か。

 いづれにしても、平泉の藤原秀衡に仕える橘次郎末春、
別名『金売り吉次』が大きく関わって来る。

←宮城県多賀城市の『多賀城跡』
遮那王が毎日祈る多聞天。
有る日ここに吉次も祈りに来た。少年を見て、このお方
が源義朝の若君に違いない。
話しかけてみると、正しくその通りであった。奥州平泉へ
度々行くと言うと義経は興味を示した。

 こうして、二人の関係は鞍馬山を出るまでに進展したの
であった。

 1,174年3月3日、16歳の遮那王は鞍馬山を出奔し
金売り吉次に伴われ平泉へと向かった。

 →鞍馬山の奥の院へと向かう途中、坂道を上り切った
   ところに1.2m程の『牛若丸背くらべ石』が有ります。
  かなり、小柄だったようです。
←鞍馬山にある鬼一法眼社。鬼一法眼(きいちほうげん)
は、一条堀川に住む陰陽師で武術書を持っていた。
 
 見せて欲しいと願ったが断られたが、娘がこの武術書を
盗み出し牛若丸の手に入る。

 娘の名は『皆鶴姫(みなつるひめ)』。
激怒した鬼一法眼に縁切り、島流しを受けた姫は、やがて
義経を頼ってみちのくに辿り着く。
宮城県気仙沼市に『皆鶴姫の観音堂』があります。
姫がここに来た時は長旅で衰弱しきっていた。義経が駆け
つけた時にはもう息は無かった。
姫が手に持っていた観音様をここに祀ったと伝えられてい
ます。
 尚、福島県会津若松市河東町の藤倉にも似たような話
が残されています。

 さて、『武蔵坊弁慶』の登場ですが…
あまりはっきりした事が分っていないようです。
紀州熊野の生まれで、六歳の時に比叡山に預けられる
が成長するにつれ乱坊者で嫌われ、追われる様に比叡
山を出て京都大原・三千院の往生極楽院(→)辺りにあっ
た庵に一時住んでいた。その後大阪、四国を巡った後、
再度京都に戻る。
 ここで、有名な『京の五条の橋の上の太刀千本取り』
の名場面が出ます。

(※1)「前九年の役(1,051-1,062)」「後三年の役(1,086-1,088)」
当時、東北地方以北に住み直接中央の政権の支配下に入っていなかった人々は蝦夷(えみし・えぞ)と呼ばれ蔑まされていた。
これらの内、中央の支配下に入ったのは、これまた侮蔑的な言葉「俘囚(ふしゅう)」と呼ばれ九州地方に移住させられたものも多い。
 東北地方の俘囚(ふしゅう)の中に反逆するものが現れ平定するのが前九年の役、内輪もめに近いのが後三年の役。

【参考資料】 現代語訳 義経記 高木卓著 河出文庫
        義経と静御前二人のその後 今泉正顕著 PHP文庫
        京から奥州へ 義経伝説をゆく 河北新報出版センター