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■ 塩釜その1 塩釜市 |
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曾良日記によれば、多賀城市の壷の碑などを見学し、午後2時頃に塩釜に到着した。
湯漬などを食べた後、塩釜では「塩釜の釜(=御釜神社)」を見て、野田の玉川、末の松山(多賀城市)などの歌枕の
地を巡り、法連寺門前の「治兵」に泊まったとある。 |
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塩釜市の中心商店街の十字路角に、「御釜神社」があります。
この神社は、鹽竈神社の境外末社の位置づけですが「塩竈」と言う地名の由来となった「神竈」が安置され、毎年7月
には鹽竈神社例祭の神饌(塩)を調進する特殊神事「藻塩焼神事」が行われ鹽竈神社の末社でも特別な位置付けに
あります。 鹽竈神社別宮と同じ祭神である鹽土老翁神を祀っています。 |
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「おくのほそ道」の御神神社の項の説明文とその右手の建物内にある「神釜」。4個の鉄製の大きな鉄製の皿(釜)
が納められている。 社務所にお願いすると初穂料100円で見学できるとの事。 |
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表参道(別名:表坂・男坂)は202段の急な階段がありますが、JR仙石線・本塩釜駅前に近い東参道(別名:女坂)は
緩やかな階段になっています。
この辺りに芭蕉と曾良が泊まった宿「治兵(じへえ)」がありました。突き当たりに「芭蕉止宿の地」の解説版が設置
されています。 |
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この一帯には塩釜神社別当寺「法連寺」がありましたが、明治維新の時に廃寺となり書院であった「勝画楼」以外
は取り壊されました。「勝画楼」は藩主参拝時の御休み所で、明治天皇の行幸の際も使われました。
芭蕉も、宿の直ぐ近くでしたので見たといわれています。 |
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右下の絵図の一番右側にあるのが「勝画楼」で、芭蕉止宿の地解説版から右手に登っていきます。
一時は料亭などとして利用されたようですが今は何にも利用されていないようです。 |
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「幻の日本初の洋式灯台」跡。幕末、「勝画楼」の脇に、洋式の灯台建造計画がもちあがりましたが維新の
どさくさで未完のまま台座だけが残されました。
右上は、法連寺解説版の「奥州名所図絵」(宮城県県立博物館所蔵より)。 |
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女坂の景観 |
宮城の銘酒・「浦霞」の佐浦酒造にH18年移築された
(多賀城市・慈雲寺より譲受)法連寺の向拝。 |
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芭蕉が松島に向かうために船に乗った「船出の地」があります。この頁の位置関係を説明するために「案内板」を
使わさせてもらいます。現在は埋立によって街の中になっていますが、当時の港はこの辺だったようです。 |
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黒瓦の建物の左から二番目(太田屋・味噌店)のところがそうです。 |
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案内板の左下の緑地が融ヶ岡(とおるがおか)です。そして『芭蕉晩鐘の碑』という記述がありましたので行っ
て見ました。融ヶ岡の登り口に愛宕神社があり、鳥居から40段ほど階段を登った右手に石碑がありました。
江戸期の鹽竈神社の神職を代表する知識人であった藤塚知明が「おくのほそ道」の塩釜の項を記載したもの。
『晩鐘』は、おくのほそ道の『入相の鐘(日没時の時につく鐘)を聞いた』から来ていると思います。
平安時代、中納言源融は陸奥出羽按察使(東北地方を監督する役職)を兼務しました(遙任といい、実際には
赴任しなかったという説が一般的です)が、その時の屋敷があったと言われている事から地名になっています。
源融は千賀ノ浦(塩釜湾)の風景をこよなく愛し、のちに、都へ帰ってからも、塩釜の景色が忘れられず、「塩釜」
を模した「六条河原院」を造り、更に、塩釜の藻塩焼をも再現したと言われています。 |
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芭蕉・おくのほそ道からは横道に外れてしまいますが・・・
源氏物語の貴公子・光源氏のモデルは源融だと言われており、源融が京都に造った六条河原院を題材にした
のが「少女(おとめ)」や「夕顔」等。
その塩釜=六条河原院の縁で、塩釜神社裏坂近くの歩道に文学碑が建設中でした。 |
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