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■ 塩釜その2 塩釜神社 塩釜市 |
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陸奥(みちのく)はいづくはあれど塩釜の浦漕ぐ舟の綱手かなしも…古今和歌集
みちのくは何処でも趣はあるがその中でも塩釜の浦を漕ぐ舟が綱で引かれていく様子がしみじみと感じられることだよ。
はかない末の松山を見てから塩竈の浦で入相の鐘(日没時の時につく鐘)を聞いた。(新暦6月24日)五月雨の
空はいくらか晴れ、夕月が辺りをほんのり照らして、籠が島も近くに見える。海辺では猟師の小舟が連れ立って、
魚を分ける声がし、それを聞くにつれ「綱手かなしも」と古人が詠んだとか言う気持ちがわかりしみじみしてくる。
その夜、目の不自由な法師が琵琶を弾いて奥浄瑠璃を語ってくれる。平家琵琶でもなく幸若舞(こうわかまい※)
でも無い田舎っぽい調子で枕元でやかましいが、そうは行っても片田舎にこんな風土が残っていることは素晴らし
い事だと思う。
※室町時代に流行した語りを伴う曲舞(くせまい)の一種。能や歌舞伎の原型といわれる日本最古の舞楽。
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翌朝早く塩釜の明神を詣でた。この神社は藩主が再建(注1)なさって、宮柱が太く、彩りをつけた垂木は輝いてい
る。石の階段は長く、差し込む朝日が玉垣をきらきら輝かしている。
このような、道の果てのような辺境の地まで神の霊験があらたかでいらっしゃることこそ、わが国の古来からの風
習なのだと、大層尊く思われる。
神前に古い素晴らしい灯篭がある。鉄の扉に「文治三年 和泉三郎 寄進」(注2)と、書いてある。
500年もの前の面影が、今もこうして目の前に浮かび上がって珍しい。彼、和泉三郎は、勇気、忠義、孝心を全て
備えた立派な人物である。その高名は今にまで至って、慕わない者はない。
人は道にかなった生き方をして義理を守るべきである。そうすれば「名声もついて回る」と古人も言っている。
日はもう正午に近い、舟を雇って二里ほど先の松島へと向う。
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202段ある表参道(男坂)の階段。この東側、JR仙石線・本塩釜駅前近くには緩やかな裏参道(女坂)や九十九折の
七曲坂、緩やかな階段の裏坂(女坂)、更に車で上まで登れる参道もありますのでこの階段に挑戦する人はそう多く
ない。階段を上りきると、唐門が現れる。 |
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唐門と内側の、回廊。
(注1)塩釜神社は、平安時代初期には有った事が確認されている。その後、当時の東北一の権力者、平泉の藤原
家の崇敬を受ける。またその後、仙台藩主・伊達政宗の手により1607年造営がなされた。 現在の建物は、4代
綱村・5代吉村公の手により1704年完成したもの。 |
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本殿・手前の拝殿と、右の写真は拝殿の奥にある左宮(たけみかづちの神)と右宮(ふつぬしの神)。
(注2)拝殿の左右に、下記の文治の鉄灯篭がある。「和泉三郎」は、奥州藤原氏、藤原秀衡の3男、藤原忠衡(ただひら)のこと。
彼は、文治5年、義経を最後まで守り、義経と共に兄の泰衡(やすひら)に滅ぼされた。23歳の若さであり、その2年前に灯篭を寄進している。 |
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国の重文になっている、文治の灯篭。
右は、境内から見る「千賀の浦」。塩釜港から松島湾内が見える。芭蕉もここから松島見学に出ている。 |
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さて、芭蕉一行は塩釜から船に乗って松島の雄島に向かいます。
その当時も、松島湾内の船旅はお酒などを積み込んでの遊覧だったと言います。写真の様なド派手な船は無かった
でしょうが気分は、今とそんなに変らなかったようです。 |
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『夕月が辺りをほんのり照らして、籠が島も近くに見える』と記述された「まがき島」。
北浜地区の魚市場の近くにあります。塩釜湾内の島々はこの島を残し埋め立てられ消えてしまいました。
観光船の乗り場から(↑)の遠景。右手の観光船の真上に見える緑のところがそれです。漁港の岸壁からは橋で
結ばれていますが入り口は閉鎖されています。 |
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防波堤を回りこんで、海側からの「まがき島」。 |
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