■ 壷の碑(つぼのいしぶみ) 多賀城市
1689年新暦6月24日。芭蕉は多賀城の壷の碑に着いた。苔を取り除いてみると、文字がかすかに見える。
四方の国境までの里数を書いてある。「この城は、神亀元年、大野朝臣東人が作ったものである…」。昔から歌に詠
み残された歌枕は、たくさん語り伝わっているけれども、山が崩れて、河が流れて、道が変わって、石は埋もれて土
の中に隠れて、木は老いて枯れて若い木に変わるので、時代が変わってその跡がはっきりしない事ばかりなのに、
この碑に至っては疑いも無く千年前の記念であって、今目の前に古人の気持ちを見ることができる。これも行脚の1
つの恩恵であり、生きている事の喜びであると旅の疲れも忘れて、感動の余りに涙もこぼれるほどであった。

西行法師の歌。「みちのくの奥ゆかしくぞ思ほゆる壷の石文(つぼのいしぶみ)外の浜風
            …奥州のさらに奥が知りたく思われる、壷の石文や外の浜風によって−「山家集」


◆参考地図  多賀城跡Map
多賀城は724年に陸奥の国府・鎮守府として置かれ、約200年東北地方の政治の中心地であった。
案内図の中心・薄く黒い線で囲まれた範囲が政庁の外郭。

左の案内図の「現在地・南門」の内側に、芭蕉が見た『壷の碑』がある。
水戸の黄門の命によりお堂が建立されたという。 
壷の碑(つぼのいしぶみ)の現物。芭蕉がおとづれた時は、苔むして読むのが大変だったという。
日本三古碑のひとつ。
右:石碑の拓本。奈良の京から1500里(1里=540M)、約800kmなどの道程と、政庁の初建立神亀元年(724年
)と、再建を記念し、この石碑を建てた(762年)ことが記されている。
石碑の後方の小高いところに、政庁外郭の正門・南門があった。ここから、北側・写真の手前に階段を上っていくこと
になる。
右は、階段途中からの風景。
屋敷林の陰に石碑があり、後方に東北新幹線の架橋と建築物が見えるが、往時は太平洋まで見渡せた。
巾、12Mの当時の道路は、この下にあります。上り詰めたところが、政庁内側の南門のあったところ。
第二期の1番豪勢な政庁の推定模型。周囲に土塁の塀が回っていた。
手前の赤いところが、政庁の南門と、翼楼があったところ。 石ぶきの中庭と、政庁の本殿があったところ。