宮城県民の森一帯の遠景。上の写真の右手の住宅が向いの山の端まで続いているのが塩竈街道。↓下の石碑は右から三分の一位の所。
中央部辺りが「十符の菅」を栽培する地域が有ったところ。 山の麓を右手(東)を進むと多賀城市へと続きます。
『おくのほそ道』のネーミングはこの一帯の細道だったのです。 |
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現在の「今市橋」、塩釜街道の碑がある。
石碑側から南方面を見ていますが、この道は一番上の
比丘尼坂から今市地区を通ってここに出ます。 |
橋の突き当たりが、『おくのほそ道』碑がある東光寺。
奥の小さな車の隣が碑。 |
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元禄2年(1689年)5月8日(新暦6月24日)、芭蕉と 曽良は加右衛門が描いた地図を携え仙台をあとに 塩釜街道(※1)を多賀城に向いました。
※1.塩釜、松島、石巻、牡鹿半島の西海岸を経由して金華山大金 寺に至る道=金華山道。
現在の仙台市北東の位置、七北田川に架かる土橋 (今市橋)を渡って左へ6、7丁行くと、北側の谷間に 「岩切新田」があります。歌枕に歌われた「十符の菅」 を栽培する地域があったと言われています。
「おくのほそ道」は、その田に通じる畦道(あぜみち)の 呼称であったそうで、ここからヒントを得てネーミング したようです。(※2)
(※2)又は、塩釜(塩竈)街道そのものを奥の細道と言っていた。 |
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◆十符の菅 |
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かの画図にまかせてたどり行けば、おくの細道の山際に、十符の菅あり。今も年々十符の菅菰を調(ととの)へて、
国守に献ずといへり。
民家の庭先に、今も往時を偲ばせる「十符の菅」が栽培されている。
十符(とふ)とは、10の節の事でありこの菅で編んだ菅菰(すがごも)はきれいな模様が浮き出て珍重されたとのこと。
菅は近辺の湿地帯に一杯生えていましたが、この地のものが歌枕の"代表"となったようです。
曾良の備忘録に「百姓屋敷の内にあって、垣で囲ってある。今も国主に菰を献じている。ここまでの道は田の畔(くろ)で、奥の細道と言う」
と記している。
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東光寺前の信号から、一つ西に行った信号の所から、山道に向かう細い通りがあります。
昔は木製の案内板があったそうですが、朽ちて再建されていません。下のSさんのお話では、仙台市に要望したけれど『それほど、歴史的
価値の有る史跡でも無い』と、断られたそうです。遠くからいらっしゃる方には是非案内板の欲しいところです。
地元の人間でさえ入り口が分らず、凡その見当を付けて細道を上り詰めると小規模な畑に出てしまいました。写真中央の一番奥のお宅の
ご主人に尋ねると、『手前の青い瓦の家だよ』とのこと[写真:右上の奥のお宅]。 |
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来客中のご様子でしたが、意を決してお邪魔してみました。
『つかぬ事をお伺いしますが、芭蕉の十符の菅って言うのはどちらでしょうか?』
『ここですよ!』
わざわざ、ご主人が出てきて説明していただきました。
『この庭に有るのが「十符の菅」で、今は水辺で無くなってしまったので育ちは悪くなっている』ことや、
『昔道路脇に祠があって、十符の菅の札が有ったけど、今はここに別なのを納めています』と、陶製の祠を開けて
小さな何と言うのでしょう、やはり標識なのでしょうか(?)十符の池と記載されているのを見せていただきました。
Sさん宅のご主人には、感謝・感謝です。
芭蕉一行は、ここを訪ねたようですがその後、菅菰の献上も止めてしまったようで「歌枕の観光地」も人々から忘れ
られた様です。
角川文庫:金森敦子著『芭蕉「おくのほそ道」の旅』で、芭蕉の後の紀行文・橘南谿の「東遊記」のエピソードを紹介
しています。
道行く人に、十符の菅を尋ねても誰も知らない。そこで、案内村の茶屋で十符の菅(とふのすげ)を知っているかと
尋ねてみた。
すると女は『豆腐はここでございます。』
『いやいや、豆腐ではなく十符なのだが…。』
『ですから、豆腐はここでございます。お好きなように料理しますから、中に入って休んでください。』
ちなみに『十符』という言葉は、現在宮城県利府(りふ)町が『十符の里(とふのさと)』などとして使っています。
現在の「宮城県民の森」の周辺、この地仙台市岩切から隣接する利府町の湿地で菅の栽培が盛んに行われてい
た事からの命名だと言われています。
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