■ 仙台(仙台TOPページ)  宮城県仙台市
芭蕉は、1689年旧暦5月4日(新暦6月20日)仙台に入り、4日間滞在しています。

 名取川を渡って仙台に入る。丁度5月5日の端午の節句の前日でアヤメを葺く日であった。泊まる所を探し4、5日
とどまった。この地に絵師の加右衛門と言う者がいた。少しばかり風流心が有ると聞いて知り合いになった。
 この者が「長年、名前ばかりが知られていて、場所がはっきりしない名所を考え調べて置きましたので、ご案内し
ます」と言って1日案内してくれる。
 
 宮城野の萩は茂り合っていて秋の様子が素晴らしいことと自然に思いやられる。玉田や横野を通り、つつじが岡に
着くと、そこは古歌で有名なアセビが咲く頃である。
 日の光も通さないこんもりとした松林に入っていくと木の下と言う所だと言う。昔もこのように露が深いので、古歌に
「お供をしている方よ、ご主人様にお傘をどうぞ」と詠んでいる。薬師堂や天神のお社などを拝んで、その日は暮れて
しまった。

 加右衛門はさらに、松島や塩釜の所々の風景を絵に描いて贈ってくれた。さらにまた、紺に染めた緒をつけた草履
を二足、餞別としてくれる。風流人とは思っていたがここに至ってこんな贈り物をよこすとは、本当に思ったとおりにそ
の風流人としての実体を現したのだ。

 あやめ草足に結ばん草履の緒
    
■芭蕉が奥の細道・仙台で訪問した場所

◆亀岡八幡宮      Map

◆東照宮 玉田・横野 Map 
◆榴ヶ岡の天満宮   Map  
◆陸奥国分寺跡    Map   
◆十符の菅       Map

◆おくのほそ道碑    Map  
   
 手書きで汚いですが、ゆかりの地を上に示します。
このHPで取り上げているもの
   
 
◆宿泊場所・国分町、 滝沢神社…この頁
 ◆亀ヶ岡八幡宮
 ◆東照宮    
 ◆宮城野 榴ヶ岡八幡宮と陸奥国分寺跡  
 ◆比丘尼坂、十符の菅、おくのほそ道  


◆ 国分町(こくぶんちょう)と芭蕉の辻
    
芭蕉は、大淀三千風に会おうとしたが、既に仙台を離れていた。
大淀三千風は、1639年伊勢射和の商家に生まれ実家で精を出していたが30歳の1669年に松島に来る。15年ほど仙台、松島を拠点として仙
台俳壇の基礎を築き、1683年全国行脚(後に「全国行脚文集」を刊行)に出る。晩年は故郷に戻り1707年69歳で永眠する。名前の三千風は、
当時流行した一昼夜の内に句を幾つ詠むか?で、3000句を詠んだ事に由来する。
仙台藩四大藩主伊達綱村の時に、仙台領内の名所・旧跡が整備されたがその中心的役割を果たしたのが三千風で、絵師の加右衛門もこ
れに参加した。
曾良日記に出てくる「大町」「国分町」の交差点にある「芭蕉の辻」  Map

『芭蕉の辻』と道標。芭蕉の辻は、松尾芭蕉とは関係の無い地名です。「場所の辻」(=繁華街なので人目につくよう
辻札が立てられた場所、待ち合わせ場所)が訛ったとか、芭蕉の木が植えてあったからとか言われている。
左は現在明治安田生命ビルの前に有る芭蕉の辻標と、「南 江戸・日本橋まで93里」の表記のある道標。
右は、当時の様子を表すレリーフ。
大町通りは青葉城・大手門から東に城下を走る道、国分町通りは奥州街道が走る通りで当時は、御城下の繁華街
だった。この芭蕉の辻、今は、地元「七十七銀行(明治時代は本店が有った。今は支店)」や日本銀行仙台支店が
ある。写真左は、日銀前にある道標。  右は、今は夜の繁華街となっている国分町の通り。
大町の通り。左は芭蕉の辻から東側の風景。日銀仙台支店と奥に「大町商店街」のアーケードが見える。
右は、同じ場所から西側の風景。青葉通りと併行して走るこの通りは、青葉城大手門に通じる。右に見える
のが辻標&道標。

◆ 滝沢神社の芭蕉句碑
 滝沢神社は本町2丁目の「錦町公園」の南側にあります。鳥居の右側に芭蕉句碑があります。
この句碑は「梅月碑」と呼ばれ、芭蕉が蕉門森川許六(注1)の家で紅梅を詠んだ句(注2)が刻まれています。
1828年に建立、昭和20年7月10日未明の空襲で破壊されたが、その後につなぎ合わせたので痛々しい。

  春もやや気色ととなう月と梅 (月は朧に霞み、梅は花をほころばせて、春もようやくその気配を調えてきたようだ)

(注1) 森川許六 きょろく。1656-1715。彦根藩士。はじめ狩野派の絵画と漢詩に親しんだ。
(注2) 画賛句として芭蕉が好んだ句作である。画賛とは、ある人が描いた絵に、別の人が言葉、特に漢詩や俳句
    などを書き入れた作品を言う。 この時に書き入れる言葉を「賛」と呼ぶ。
葉類裳やゝ 希之起登々 南宇月と梅
(はるもややけしきととなう月と梅)