■ 上杉鷹山関連頁 …山形県米沢市・その3         

戦国武将のあの上杉謙信の二代目、景勝公が会津を経て、ここ
米沢に移封されて以来明治の時代まで当地の藩主でした。

 ところで、 
数百 ⇒ 120 ⇒ 30 ⇒ 15 
って、何だと思いますか?

これは、上杉家の石高の推移です。
初代・上杉謙信が越後で君臨していた時は数百万石の実力を有し
ていたと言われています。そして、二代目景勝の時、豊臣秀吉によ
って会津に移されたときの石高が120万石。しかし、関ヶ原の戦いの
時に西軍に加担した事から徳川家康によって30万石に減らされて、
米沢に移された。その後、四代目が急死し後継が無く急遽縁戚から
後継者を選定し、何とかお家断絶を逃れたものの、15万石に減じら
れたので有る。

上杉家は、120万石当時の家臣を抱えたままであった。
↑ 上杉謙信公を祀る上杉神社。(松が岬公園・城址内)
 同じ、公園内に隣接して松崎神社があり、10代目上杉鷹山公を祀っている。
 いずれにしても、120万石から15万石に減らされ藩の経済は疲弊し
ていました。藩領を幕府に返上してしまおうか真剣に考えた時も有っ
たとの事です。
  そして、時は流れいよいよ中興の名君・第10代藩主「上杉鷹山」
の登場になります。第9代藩主重定には男の子がおらず、日向高鍋
藩主(3万石)秋月種実の二男として生まれた「鷹山」を娘婿として迎
えた。

 第35代アメリカ大統領ジョン・F・ケネディが日本の政治家の中で
最も尊敬するのは「上杉鷹山」だと言ったのも有名な話です。

自ら一汁一菜、木綿の着物を通し、若きよそ者藩主への保守的な
家臣の反抗を受けながらも、地場産品の育成、兵糧の備蓄、人の
育成と根気強く破綻した藩の経済を立て直していった並々ならぬ
努力と手腕は、先般のバブル崩壊後の時に多い取り上げられまし
た。

『なせば成る、なさねば成らぬ何事も。成らぬは人のなさぬなりけり』
これは、部下に示した和歌と言われています。
 上杉神社から約1km離れた所にある上杉家御廟所  Map
正面に第一代・上杉謙信公の御廟があります。
そして、左右に歴代藩主の廟が並んでいます。 写真↑の左端に写っているのが、上杉鷹山公(写真右も同じ)の御廟。
※本ページは平成16年2年に撮影したものです