■ 芳泉町武家屋敷 /山形県米沢市 その2
 米沢藩は減封により困窮していた。さらに大凶作が続いたため、上杉藩は中・下級武士による南原の開拓を命じた。
南原は米沢盆地の南端にあり、南側には福島県境の山並と東側にはその山並みを水源とする最上川が流れ出る所
で(現:芳泉町、石垣町)、開拓が始まる以前は、最上川の流れも定まらず人の踏み込まない原野であったといわれる
。街道の防御、最上川の治水をあわせた、居住地と農地の整備が開始され、当時の町割をよく残している。 
 
各屋敷は間口が6-7間、奥行きは25間を基準にその奥の開拓は自由であったとの事で、各自開拓に励み食料確保
をしたと言われている。通り沿いには凶作時に食料ともした「ウコギ」を使って垣根とした。
 
 平成19年2月10日、上杉雪灯篭まつり会場からタクシーに乗り芳泉町(ほうせんまち)に向かった。 MAP 
『武家屋敷まで』と告げると『今は茅葺を鋼板に葺き替えてしまって1-2軒しか残っていないですよ!』との返事だったが、運転手さんの
知っている範囲で回ってもらうことにした。実際には通りに沿って茅葺のお宅が7軒程有りましたが、いずれ近いうちに建て替えられて
しまう可能性も有りますので、見たお宅を全て搭載して置きます。
 芳泉町の通りの一番南側(下町?)から城下町のある方(上町?)に北上します。↑同じお宅の前面と裏側。
 資料が無いので不正確ですが、基本は「曲屋」となっているようです。 ↑同じお宅の前面と裏側。
 周りは現代的な家に建て替えられています。  ↑同じお宅の通り側と全体
 『(曲屋部分が)合掌造りとなっている家も昔は多かったが今は殆ど無くなったんだよねぇ』との運転手さんの話。
↑この頁の一番上の写真と同じお宅。木が邪魔して上手く撮影できませんでしたが唯一の合掌造りの前面と裏側。
↑同じお宅の前面と母屋部分の拡大。
 茅は新潟県から職人さんが来て葺き替えているらしい。  最後の(一番北)お宅を見て市街へ戻りました。