関口芭蕉庵/現 文京区

  芭蕉が郷里の伊賀から江戸に出て、深川芭蕉庵に住みつくまでの直前(1677年から1680
年まで)、現在の文京区関口で、神田上水(江戸川)の改修工事に携わり、この工事を監督しまし
た。
 神田上水は、天正年間(1573〜92年)、徳川家康の命で大久保忠行が開設したのに始まる
上水です。井頭の池を水源として、関口、水道橋を経て、神田・日本橋・京橋に給水し、総延長約
66Kmもあり、芭蕉は、宝暦期の改修工事に携わりました。
 芭蕉は、工事現場か水番屋に住んだといわれますが、後に、芭蕉を慕う人々が「龍隠庵」(りゅ
うげあん)と言う建物を建て、芭蕉を慕う俳人達が集い、いつしか「関口芭蕉庵」と呼ばれるように
なったとのことです。
 元の建物は火事や戦火で焼失し、昔の面影を残そうと第2次大戦後に再建されたものですが、
周囲の風情ある庭や池・木立は往時を偲ばせてくれるそうです。

 この地のリポートを、ぶんこさんからリポートいただき、更にJyoさん、jusinさんのお三方から
貴重な写真の提供を受けましたので、ゆかりの地紹介頁としてご案内します。


@神田川の対岸からの芭蕉庵入り口全景…Jyoさん提供

ぶんこさんより、2008年4月、こんなお便りがありました。(原文のまま)
   
桜が綺麗な(葉桜になっていたが)神田川ベリを歩いて来ました。
駒塚橋がある北側の起伏を持った土地(小さな森)一帯に、関口芭蕉庵があります。芭蕉が郷里
伊賀から江戸に出て来て、深川芭蕉庵に住み着くまでの4年間1677〜80年(37歳)を過ごした
そうです。
芭蕉の33回忌の1726年に「芭蕉堂」 も建てられ、像も祀られています。
脇に植えられている「イチョウ」の木は、東京空襲でも焼けずに残っています。
芭蕉はここから早稲田の田圃を眺め琵琶湖に見立てて「五月雨にかくれぬものや瀬田の橋」の
句を詠んだそうです。
「五月雨塚」にその芭蕉の真筆が埋めてあるそうです。
川べりから急坂胸突坂を上った台地の上には、熊本・細川藩下屋敷跡や山県有朋の屋敷跡で
ある椿山荘、丹下健三設計の東京カテドラル聖マリア大聖堂もあります。

jusinさんから次のようなお届けがありました。

弁慶さん。ご無沙汰してます。
関口芭蕉庵となりましたら、お仲間に入れてください
芭蕉さん伊賀から出てきたばかりで、お金もありません。
ここで水道工事の仕事をしていたと伝わります。

川は、お世辞にも綺麗とはいえませんが、桜が咲きますと
江戸情緒ゆたかに、江戸川公園、椿山荘と並び、美しいところでございます。
ここは、個人宅なので、休館ということもあります。おでかけの時は、是非ご確認を。

 そして、Jyoさんからもお便りが。

お届けの「文章の転載はご遠慮ください」との
ことで、写真のみご紹介です。
←左 A関口芭蕉庵の正門(扉が開いており
ました)
左下:B「芭蕉堂」の案内版
左下:C庵内に生い茂る「芭蕉」
右下:D芭蕉庵のアップ
右下:E芭蕉翁の句碑
 “古池や……”
 芭蕉自画賛の軸より芭蕉翁の筆跡が模刻さ
れております。
 
 F芭蕉庵の解説版 
 G 「江戸名所図絵」にみられる芭蕉庵