奥の細道・ 松尾芭蕉の心を捉えた人々
 歌枕と陸奥(みちのく)  
陸奥は京都から遠く離れており未知の地であった。『古今集』の東歌などでこの地名を知り、憧れが生じてきたと思われ、陸奥に関する歌枕が多かった。
 
源  融
 
歌枕の関係人物紹介:860年ごろ、のちに左大臣となる源融(とおる)。
 
百人一首には「みちのくのしのぶもぢずり誰故に乱れそめにし我ならなくに」という歌を残した歌人としても知られていますが、
この源融が陸奥出羽按察使という陸奥守と出羽守の上位に位する官職を賜りました。
源融は自分が支配することとなったみちのく、とりわけ松島の美しさを噂で知っていたのです。京都加茂川六条河原に風雅の限りをつくした庭を造りました
。いまでも京都には塩釜という地名が残っていますが、伊勢物語によると、この庭は「わがみかど六十余国の中でしほがまといふ所ににたるところなかり
けり」、つまり、日本のなかで塩竈の浦ほど美しいところはない。そのような庭を造って都の人々にみちのくのとりわけ松島の美しさを喧伝していったのです
。ところで、源融が模したという塩竈の浦いわゆる松島は国府の海です。みちのくの風流は国府の風流として始まったのです。
そして、国府多賀城はみちのくの都であります。みちのくの雅(みやび)と京や奈良の都の雅が国府多賀城を通して一つに溶け合い、平安宮廷文学に新し
い歌の泉を注ぎ込んでいったのです。


西  行
 
西行 さいぎょう:元永元年(1118)〜建久元年(1190))は、平安末・鎌倉時代の歌僧。

ねがわくば 花の下にて 春死なん そのきさらぎの もち月のころ』で有名。
鳥羽院下北面の武士として仕えていたが、1140年23歳で出家。出家後京都に住み、その後、高野山に入り40年近く居住、『山家集(さんか(が)しゅう)』
はその最後の方で完成されたと云われている。
1180年63歳の頃、伊勢へ移住、また臨終の時には河内の広川寺に住んでいたことが知られている。
2度に亘る奥州紀行を始め、ほぼ全国をめぐる旅を経験。その和歌の評価は当時から高く、『新古今集』には94首も選ばれて最多入集歌人となっている。
円位法師と云う名で『千載集』に初出、家集に『山家集』『聞書(ききがき)集』『山家心中集』『西行上人集』がある。 『山家集』は西行の家集で、約1600首
(1552首とも)を三巻(上巻に四季、中巻に恋と雑、下巻に雑)に収め、編者・成立年未詳である。歌風は平明で用語も自由、仏教的世界観を基礎に歌境
を広め且つ深め、自然詠と述懐とに秀歌が多いとされる。

西行法師の歌の旅
1度目の陸奥への旅 1150年頃 26歳から31歳の間 陸奥へ修行のために出る
2度目の陸奥への旅 1189年 西行69歳 6年前(1180年)に平重衡の南都焼き討ちによって失われた東大寺再建のために、奥州の藤原秀衡に砂金
の勧進を依頼するために伊勢を出発。  この勧進を西行に依頼したのは重源上人。
  
藤原実方
   
うたたねの この世の夢のはかなきに さめぬやがての命ともがな
後拾遺和歌集564番。藤原実方
うたたねで、亡き子の夢をみた。夢はなんとはかないことだろうか。 いっそのことならば、夢のまま覚めない命であって欲しい。
実方(さねかた)は平安中期の貴族。右近衛中将、蔵人頭は藤原行成でしたが、宮中の殿上の間でふたりは口論になり、実方はついに笏(しゃく)で相手の
冠をたたき落とします。
しかし、このふるまいは一条天皇の不興を買い、陸奥の歌枕を見てまいれ。と陸奥守に左遷されます。995年のことです。ところが歌枕の土地を見られるの
で、栄転みたいに喜々として赴任します。着任するとさっそく毎日のように、歌の名所を訪ね歩きました。
でも3年後に任地で死にます。死因は、笠島道祖神のまえで下馬しないで通ったため落馬したと伝えられています。
歌枕はともかく、ふるさと京都にはついに帰れませんでした。
そののち実方の霊はなぜかスズメに化けて、京都まで飛んでいきます。ようやく都に着いた実方スズメは、清涼殿の台所にちょこんと止まって、エサを食べ
ました。それから勧学院まで飛んでいって息絶えたといわれています。
  
能因法師

  
小倉百人一首の「あらし吹くみ室の山の紅葉ばは龍田の川の錦なりけり(後拾遺和歌集)」で知られる能因(988〜没年未詳)は、
二度みちのくへやって来たといわれています。
能因は、歌語や歌名所を解説した「能因歌枕」を著しており、その中で、陸奥国を山城(京都府南部)、大和(奈良県)に次ぐ第三の歌枕の国と位置づけて
います。能因は、藤原実方より半世紀後の当時屈指の漂白の歌人として知られています。
 実方が没して30年後(1025頃)、能因は白河関を越えました。白河関を越えた能因は安積山、安達太良、会津嶺(磐梯山)を遠くにみながら阿武隈川
を越えました。宮城に入ってまもなく武隈の松(岩沼市)にさしかかります。

武隅の松はこのたびあともなし千歳をへてやわれは来つらん   後拾遺和歌集
 武隈の松のある岩沼市は、古くから日本三大稲荷(京都府の伏見稲荷、愛知県の豊川稲荷)である竹駒神社の所在地です。縁起によれば824年(承和
9)に陸奥守小野篁が、東北開拓の神としてこの地に社殿を建立、武隈明神と称しました。能因法師が陸奥に行脚してこの地にいたり、竹馬に乗った童子
(明神の化身)に会い歌道の奥義を悟ったといわれ、竹駒神社と称されるようになったといわれています。 

ゆふされば潮風越してみちのくの野田の玉河千鳥なくなり    新古今和歌集  
野田の玉川(多賀城市、塩竃市)は六玉川の一つとして古来名高く、また千鳥の名所として知られています。

能因法師の歌の旅 1050年頃 陸奥の国へ
  
義経の平泉落ち
  

1回目 1174年 牛若丸16歳、金売り吉次に誘われて京都鞍馬寺を出る。奥州街道を通る。
2回目 1186年 兄頼朝に追われ、北陸街道を通って京都から北陸道(途中から奥州街を山伏姿で)平泉へ。平泉で一生を終える。