■ 唐招提寺-1     /  奈良2010.9.18-20  F
 742年日本からの熱心な招きに応じ来日を決意するも、鑑真和上は五度も海を渡ることに失敗し、盲目の身と
なられました。 753年12月、6度目の航海で遂に来朝を果たしました。
 翌年、東大寺大仏殿の前に戒壇を築き聖武天皇をはじめ400余人の僧俗に戒を授けました。
これは、日本初の正式授戒(※)です。

 和上は東大寺戒壇院を退いて当寺を建立し、4年の在ののち天平宝字7年(763)に76歳をもって亡くなられた。
 
※もともと日本には不完全な戒律しかなかったが、唐より鑑真が招かれ戒律が伝えられた。この戒律を守れるもの
だけが僧として認められることとなった。これを授戒と言う。その結果、仏教界の規律は守られるようになった。

名前の由来は、唐の国から来朝した鑑真和上の招提 (み仏のもとに修行する人たちの場という意味 )から。
 金堂
平成12年から解体修理が始まり、昨年8月(平成21年)完成し落慶法要が行われました。
以前、訪問した時には覆いの仮設小屋の中を少し覗いての拝観でした。
 内部には、薬師如来立像、廬舎那仏坐像(本尊・るしゃなぶつ)、千手観音立像(日本に3体・本当に1000本の手
がある千手観音)の三尊が居並びます。
 鼓楼。
瀟洒な重層の建物で本来は経楼と見られる。
右手の建物は、礼堂と東堂。従来は、僧の起居した場所。
 講堂。
鑑真が当寺を開設するに当たり平城宮東朝集殿を朝廷より賜り移築したもの。
 その奥には、本願堂があり、手前に芭蕉の句碑があります。
「若葉して御目の雫拭はばや(わかばしておんめのしずくぬぐはばや)」
「俳人松尾芭蕉が元禄元年(1688)陰暦四月八日、当寺に詣で鑑真和上を拝しての句」とある。