■ 伊豆下田…下田開港150周年・日本開国150年   その2(唐人お吉)     その1へ戻る
 今から150年前の、1854年3月に黒船が下田にやって来ました。
鎖国の日本が蜂の巣を突っついたような大騒ぎになったのは皆さんご存知の通りでしょう。
そんな歴史の中で犠牲なった美しき女性が『唐人お吉』でした。
下田の港風景。
ここに、黒船がやってきて開国を迫りました。
下田公園からの下田の街並み。真下にペリー艦隊上陸
の地記念碑が有ります。
ペリー艦隊上陸地の碑。 港から長楽寺に続く、ペリーロード。
↑ 「下田公園」にある『開国記念碑』。  今回、時間の関係で訪問できませんでしたが右上の写真の左手、突堤が
有る当りに初代アメリカ領事館が置かれた玉泉寺が有ります。1856年、ハリスが来航し就任します。
 『お吉』は、この年16歳。評判の売れっ子芸妓で、鶴松と将来を約束しあい平凡な幸福な生活を送るはずでした。
翌年、ハリスの目に留まり下田奉行に要望が有りました。
支配組頭・伊佐新次郎の『お国の為』だとの強い説得により、お吉はハリスの元に侍妾として行く事になります。
1862年、お吉22歳の時ハリスはアメリカに帰り再び芸妓に戻ります。 
当時の『偏見』により、お吉は『唐人』とののしられどうしでした。祇園の芸妓になったりしますが、流転の果てに再度
鶴松と出会い、25歳の時同棲を始め、31歳の時下田に戻り髪結いをするも段々不仲になっていきます。
36歳で鶴松と離別(写真右は、お吉の墓のある宝福寺の近くの稲田寺に有る鶴松の墓)。
↑は、宝福寺の記念館にある『お吉、復元像』=写真などを元に復元しているとの事で、美人さんでした。
1882年、42歳の時に開いた茶屋、『安直楼』。ここも、うまく行かず二年後に廃業。
 気安く飲めるように『安直』と名付けた様ですが
上記のように直ぐ人手に渡ってしまいます。
 没後、現在の持ち主の先代が買い取りすし屋さん
を営業していたとのことですが、現在は内部の見学
が出来ます(250円)。ご主人が説明をしてくれます。
↑ 写真右は、二階の様子。
ボケていますが、ご主人解説中につきフラッシュを
使うのを遠慮した為、ブレています。
手前の男性が、当家のご主人。


その後、乞食同然となり1891年(51歳)3月25日、
下田の町を流れる稲生沢川(3km程上流)のお吉が
淵で入水自殺をします。

←引き取り手が無かった為、宝福寺で手厚く葬る。
お吉の墓。右にあるのが元々の墓。
左手に水谷八重子さんや有志によって建てられた新しいお墓が有ります。

 駅前から、「まいまい通り」を通り下田公園に向かうと一通りの歴史的建造物を観光できます。
 また、街並みに数箇所、なまこ壁の綺麗な建物も有ります。