■川崎宿  [東海道 神奈川県川崎市]     古い町並み散策・古街道
 東海道五十三次の川崎宿は、品川宿と神奈川宿の距離
が長かったため他の宿場より少し遅れた1623年につくられ
ました。東海道を京に上る旅人にとっては「休憩の地」とし
て、江戸に下る旅人にとっては、六郷の渡しを控えた最後
の宿泊地として賑いました。
また、江戸庶民にとって日帰り参詣ができる霊場であった
厄除けで有名な川崎大師が有る事から川崎宿は栄えたと
のこと。
 川崎は大火や空襲によって殆どの建物は焼失している為
当時の面影を留めておりませんが、跡地の標識・案内板は
良く整備されております。

 訪問した時は、川崎駅近くのホテルに日が暮れてから入り、かつ
翌日は早い時間帯に出発する用事があり、芭蕉句碑の有る八丁畷
から川崎駅前近辺の散策になりました。従って、川崎大師や、六郷
の橋付近は見ておりません。
宗三寺
鎌倉時代創建、勝福寺が前身と言われています。境内には宿場の当時に仕事のきつさなどで無名のまま葬られた
飯盛女(遊女)らの供養塔(飯盛女の系譜をひく貸座敷組合が建てた)があります。今でも御参りされている方がいら
っしゃるのでしょう。お茶や、花などが添えられていました。
中の本陣・問屋場跡 問屋場に向かい合う形で建っていた通称「中の本陣」は、正式には惣兵衛本陣といい、佐藤・
田中本陣の間に位置することから中の本陣と呼ばれていましたが、江戸後期に廃業しました。その向こう側の問屋
場は公用で旅をする人達の便をはかるため人足と伝馬を常備していました。今でいう役所にあたります。
写真左上: 佐藤惣之助の碑…川崎区砂子生まれ。「人生の並木道」や「赤城の子守唄」「湖畔の宿」の作詞者

写真右上:小土呂橋跡
 この通りに幅5m程の新川堀と呼ばれる流れがあった。この堀が東海道と交わるこの地点に架けられていたのが
「小土呂橋」である。小土呂は砂子・新宿・久根崎とともに昔、東海道川崎宿と呼ばれた四町の一つで古くからの
町名である。
 川崎宿の「京側」の入口。電信柱の案内板のみ
 宿場の入口には切石を積んだ土居があり、これを出ると八丁畷の一本道、土居内は832間、このなかに宿を4つ
の町があった。
 江戸時代後期における人口は770戸、3100人余り、伝馬役を負担する農民のほか、旅籠、大工、傘職、仏師、
左官、桶職、経師、指物師などさまざまの商人や職人が住んでいた。
文久2年(1862)外国人遊歩区域となった当宿には、この土居付近に外人警護のため第一関門が設けられ、以下
保土ヶ谷宿まで19ヶ所に設けられた関門番所には、宿役人2名、道案内3名などが詰めて警戒にあたり、非常の
際には半鐘を鳴らし、隣の番所と連絡をとったとのことである。
  
写真右上:江戸時代の鐘が残る教安寺
 芭蕉句碑  「麦の穂を たよりにつかむ 別れかな」
元禄7年(1694)5月、故郷伊賀に向かった芭蕉は、見送りにきた門人たちと川崎宿のはずれの茶店で別れを
惜しみ詠んだ句。
作吟地(句を詠んだ場所)に立てられた碑としては大変貴重なもの。
川崎市では、『江戸時代の川崎宿を偲ばせる最も記念すべき遺産の一つ』としているようです。