■奥州市・水沢区 | |
旧内田家、武家屋敷。 日高火防祭りのこの日は、抹茶または煎茶の無料接待が有りました。 | |
後藤新平(※)邸 | 非公開、高萬邸。 |
※先見性のある政治家、後藤新平は高野長英の分家筋に当たる。 新平は福島県須賀川の医学校に学び、医学の道を歩き後に東京市長になる。東京駅、銀座通り、昭和通りと関東 大震災以降今日の東京の基礎を築く。東京市長の後、内務大臣兼帝都復興院総裁として「大風呂敷」の異名をとっ たが、新平は単なる大風呂敷ではなく、その裏で調査、計画、実行の合理性をもって実践した政治家であつた。 |
|
|
|
悲劇の蘭学者、高野長英は、1804年5月5日仙台藩水 沢・留守家家臣の後藤家に生まれ実父の死後、高野家 の婿養子になる。杉田玄白に学んだ養祖父玄斎から蘭 学の基礎を学び、17歳で江戸に登り吉田長叔に師事し 蘭方医学を学ぶ。22歳で長崎出島のシーボルトの鳴滝 塾で西洋事情の見識を広め、シーボルトからドクトルの 称号を得る。 1828年のシーボルト事件では旅に出ていて難を免れ、 1830年江戸で塾を開き、我国最初の生理学書などを書 いた。大飢饉では馬鈴薯・早ソバの栽培を勧める等した。 幕府批判の「夢物語」を著したことから終身刑の身にな るが獄舎の火事で逃亡、学友・門人・宇和島・薩摩藩主な どに守られ潜伏。1850年に薬品で顔を変え江戸に戻るが 遂に幕府の捕方に襲われ、自刃し果てる。46歳であった。 その4年後、日本は開国するのである。 後の明治31(1898)年、正四位を与えられ復権する。 |
|
高野長英記念館 | 生誕200年を祝う、旧高野邸での無料お茶会 |
生誕200年を記念し特別公開されていた旧高野邸。庭からと内部の長英の部屋。 屋敷は国指定史跡。 | |
近くの「生誕の地」碑 | 大安寺の長英の墓 |