■ 九分()      台湾まんきつ紀行北部周遊4日間 2012.5.3-6 E
 台湾の三日目、六つ目の訪問先は、台北から東に約45kmにある九分です。

名前の九分()とは…
その昔、九分は台湾の一寒村に過ぎなかったこの山奥には9軒の人々しか住んでいなくて下の町に降りて来ては「9軒分」の
生活用品を購入していたことからその名前がついたと言われている。
 
 九分は、日本統治下に金鉱で栄えた街。第二次大戦終了後、金の産出が無くなり徐々に廃れ一時は忘れ去られてしまった。
1989年、それまでタブー視されてきた二・二八事件を正面から取り上げ、台湾で空前のヒットとなった映画「悲情城市」のロケ地と
なったことで九分は再び脚光を浴びるようになる。
 また、日本では2001年に公開された映画「千と千尋の神隠し」のモデルになった町として紹介されたため一般の観光客への
知名度が一躍高まり台北を訪問した時の立ち寄る観光地になっています。
自分も映画「悲情城市」は知りませんでしたが、「千と千尋の神隠し」のモデルということで期待していた街です。
 
 九分は坂の町なので、駐車スペースが無く観光バスは途中で路線バスに乗り換えて行くことになります。
 
 途中のバスの車窓から基隆の港を見る  九分の街並がちらちら見える
 バス停「九分」の一つ上のバス停近くの展望台からの景観
 ここから(写真左手)商店街を下って行きます  「九分 古い街」との日本語での表記も有ります
 ガイドさんが説明しているのは、台湾で採れるタロイモをお団子状にした芋圓(ユィユェン)のようですが私はと言えば何しろ
街並の写真撮影で忙しく殆ど聞いていない。
左上の写真、哺乳瓶の様なのが面白いですが「茶小舗」と書いていますのでお茶屋さんのようです。
 漢方薬のお店のようです。
 最初、他のお客さんの応対に忙しかったのですが、ガイドさんが『ちょっと待ってくださいね』と足止めする。
やがて、店員さんがやおらミニミニ・オカリナを取り出して千と千尋の神隠し「♪呼んでいる 胸のどこか奥で〜」と演奏してくれた。
値段は忘れてしまったが、一番小さいアヒルさんが100元(300円)だったような気がする。
 実演が効いて、私のほか数人が買い求めた。 店長さん(かな?)、大成功♪
GIFアニメーションにしてみました。何となく音色が聞こえてくるような気がしませんか? 
 途中で、ガイドさんから差し入れがあった。
「草仔米果」と言う草もち団子。ビニールに包まれた温かい草餅風の生地は予想以上にやわらかくとろけてしまう触感で
中はアンコ、野菜などで確か、1個、10元だったような。
ガイドさん、ご馳走様でした。

 右上の写真、日本語の看板が。
下のバイクに注目。この狭い路をバイクが走り回っています(~~;
 九分の名所「阿妹茶酒館」
店名「阿妹」は、オーナーが子供の頃に親から呼ばれていた愛称だそうで、「阿妹」と付けると次には男が生れると占い師から
言われ、実際、次に長男が生れたとか。
 そして
 @この通り一帯は世界的に評価を受けた台湾映画「悲情城市」の舞台になったところです

 A宮崎駿さんが、午後から来店し2時間ほど「千と千尋の神隠し」のインスピレーションを求めて滞在した場所です。
 
@ 能面の様なもの これは千と千尋の神隠しの「かおなし」のイメージに使われたのかも。
  
A 「非情城市」の看板が↑ ↓ 数箇所に。 右上の能面の下、白い帽子のところに剥げ落ちた非情城市の文字が有ります。

 「悲情城市」は。戒厳令が解かれたたった2年後の1989年製作の台湾映画。

 日本が終戦(1945.8.15)を迎えた辺りから始まり、1947年2月27日台北でヤミ煙草をめぐって本省人と外省人が争う「二・二八事件」
が起きる。それらを含む、1949年12月、大陸で敗北した国民政府が台湾に渡り、台北を臨時首都に定める辺りまでのある家族に
起きた出来事を扱った映画。
 
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 日本が終戦になり、日本人が台湾から出て行った。
出て行くときは「風呂敷一つに包めるだけ」との制限がかかり、財産の殆どは使用人である台湾人に譲られた。
その後、国民党の軍がやって来て、日本人が残していった財産を没収した。
それで、「日本人を良かった」と思う台湾人が多いのです。と、ガイドさんが「悲情城市」に関して話してくれた。


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 取り敢えず関連するようなことを書いておきます。

 1945年10月17日、国民党軍2個師団12.000余と官吏200余名が、米軍戦の護衛のもと三〇余隻の米国艦船に分乗して
基隆港に上陸し、即日、台北に進軍した。

「解放軍の来訪」を爆竹と国旗を振って迎えた群衆は次第に「引いて」しまった。

 船から下りてきたのは、破れた綿入れを着たり、甚だしいのは裸足のまま、鶏を入れる籠を担いだりしたひどくわびしい身なり、
劣悪な装備をした低い士気の国民党軍だった。
多くの台湾人は、日本軍とのあまりの違いに驚愕し、日本が中国に敗れたとは、とても信じられなかった。
そして「日本はアメリカには負けたが、中国に負けてはいない」という噂の正しかったことを確信したのである。
 
 その後、略奪などが発生し治安が悪化、戒厳令が1987年まで続き、家は窓まで鉄格子で防護する生活が続いたのだ。
 
 この坂道も良くガイドブックに載っている。
 日本統治下当時、台湾で一番大きかった映画館「昇平戯院」。
この映画館も1986年から営業を停止していたが
2011年9月14日 再開した。
 千と千尋の神隠しの傷ついた「ハク」と紙の人型が入ったり
ぶつかったカラス窓をイメージしているとのことだが
どうかな?って感じでしょうか。
 こんな細い路を通ってバスの停留場に向かいます。  途中のお宅の玄関。
鉄格子の玄関には頑丈な鍵がかかっています。
 前のページ、中正祈念館のところでも記載していましたが
日本統治が落ち着いた以降、夜に家に鍵を掛けなくても良い「日本の現在でも地方の農家」に見られるようなのどかで
治安の良かった台湾は、蒋介石の国民党が渡ってきてからは自衛が必要になってしまいました。
 
日本の統治時代を懐かしむ台湾人の証言『昔は鍵などかけなくても安心して 暮らせた。
ところが今は窓にも鉄格子を嵌めなければならない』。そんな生活のようです。
 
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