■三国志ゆかりの地@ 五丈原     2017.12.31 
   
 【参考】卑弥呼が親魏倭王の称号を与えられたのは・・・

中国は、魏・蜀(しょく)・呉(ご)の三国で勢力争いをしていたが
蜀の皇帝・劉備玄徳に仕えた諸葛孔明(しょかつこうめい)がここ五丈原で死去して5年程度後のことでした。
   
 五丈原の地形図   戦いの様子
  五丈原は細長い台地になっている
  五丈原に向かうが煙っている
  朝日も霞んでいるMP2.5の中をバスは走行   通りの女性も、がっちりマスクで防衛
  町から高台へと進み、入口到着  諸葛孔明が考案した、木の牛、馬もある。
両脇の箱は組み物になっていて敵は開けられない工夫が
されていたとか。
 五丈原(ごじょうげん)とは、陝西省宝鶏付近の渭水南岸にある秦嶺山脈から突き出した台地に
広がる原野で台地の最も幅が狭い所が五丈(約10m)しかないことから名付いたという。

蜀の諸葛亮はここに陣を敷き、魏の司馬懿と百日余りの持久戦を繰り広げた。
234年8月、諸葛亮は病死し蜀軍は撤退した。

魏軍は撤退した蜀軍を追撃しようとしたが、
蜀軍は孔明の遺言により「孔明人形を車に乗せて」反撃の形勢を示したので、
司馬懿は慌てて軍を退いた。

人々はこれを揶揄して諺を作り「死せる孔明、生ける仲達を走らす」と言った。
 諸葛亮廟の案内板。 ここだけは日本語の説明が有った。
以前の「尖閣列島」問題で西安でも大反日運動が起こった性か、日本人観光客が激減したのか
施設内の「日本語表記部分」が韓国語に置き変わったとガイドが言っていた。
 手前の木簡のオブジェは「前・出師表」

前出師表は、自分を登用してくれた先帝劉備に対する恩義を述べるとともに、
若き皇帝である劉備玄徳の子・劉禅を我が子のように諭し、自らの報恩の決意を述べた文である。
古来より名文中の名文とされ、
「諸葛孔明の出師の表を読みて涙を堕さざれば、その人、必ず不忠」と言われる。
 諸葛亮廟の門  施設の模型図
門の向かって左側を守っているのは「馬岱(ばたい)」

 馬岱は、諸葛孔明が五丈原でなくなり魏延に怪しい動きがあった際に、
魏延を一刀のもとに斬り倒したことですが・・・
 
 門の右側には、その魏延(ぎえん)がおりました。
 
三国志後半における大きな存在感を放つ武将のひとりに、魏延が挙げられるでしょう。
三国志演義では、関羽にも似た容貌で描かれ(干した棗のような〜など)、
関羽・張飛 亡き後の蜀において、重要な戦力でした。
劉備は彼を気に入っていたというのですが、 一方、諸葛亮とは不仲だったという話もあります
 中庭の東屋・「八卦亭」  「正殿」
 両側で武将が守っています。   正殿両側には関興、張苞の像、両わきの殿には姜維、楊儀の像が安置
 諸葛亮(孔明)
 奥に「衣冠塚」が有りました。  本当の墓は成都にあります。
 
 【参考】諸葛亮の墓『武候祠』は、当ホームページにあります。 ⇒ こちら  
 
「月英殿」。諸葛孔明の奥さんのお堂。ガイドの話では美人では無かったが聡明だったとの事。