■ 小茂田浜神社と椎根の石屋根 2019.5.1 
   
 ◆元寇の役古戦場・小茂田浜神社
  対馬の観光は、小茂田浜神社と椎根の石屋根で終わりです。
 文永11年(1274)10月5日、900艘の艦船に分乗した3万人の元・高麗連合軍が佐須浦に襲来しました。
守護代宗資国以下主従80騎で防戦に努めましたが、遂に全員が討ち死にしました。
小茂田浜神社には、資国以下、戦死した将士の霊を祀っています。
「軍大明神」と号し、初めは資国公戦死の地に村人が小祀を建てていましたが、南北朝の頃、
宗経茂が現在地に遷し、神領を寄進して宗家の祭祀としました。
  「元寇」の名前から自分などは元の意志と元の兵士で構成されていたと信じて来ましたが
その実態は、高麗(朝鮮)が主導したモノだった。

「元寇」そのものが高麗(朝鮮)の執拗な働きかけの産物でそれが無ければ「元寇」は起きなかった
可能性すらある。

『元史』によると、フビライ・ハンに仕えていた高麗人の趙彜(ちょうい)が日本への使節派遣を促した。
更に高麗の世子椹(後の忠烈王)もフビライに盛んに東征を勧めたという記録がある。

この執拗さは、現在の韓国の訳の分からない反日行動としても知られています。

1274年、元(中国)軍が日本に侵攻。この時、元の属国であった高麗(朝鮮)は遠征軍に加わり、
対馬と壱岐に攻め入った。
対馬に上陸した高麗(朝鮮)軍により、島を守る対馬守護代、宗資(助)国ら80人の兵はことごとく殺害。
高麗(朝鮮)の歴史書には、「入対馬島、撃殺甚衆」と、キム・バンギョンの高麗軍が対馬で島民を
皆殺しにしたとする記録が見られる

山に逃れた島民をしつこく捜す高麗(朝鮮)の兵士が、赤ん坊の泣き声などをたよりに見つけ出すと
全員を殺害し、赤ん坊も股裂きなどにした。
高麗(朝鮮)軍は、命乞いを懇願する妊婦の腹を蹴破り、胎児をつかみ出し殺した。

高麗(朝鮮)軍は、壱岐、対馬の人々を、男女とも素裸にして、男は手に穴を開けて船縁に吊るし、
女は髪の毛で船縁から吊るしたとされる

高麗(朝鮮)軍に生け捕りにされた女性は手のひらに穴が開けられ、ひもを通されると
“数珠つなぎ”にされた。

そんな記録がある。
 
   
   
   
 ◆椎根の石屋根
  冬の強い季節風や雨露から大切な食糧などを守るため、母屋から離れた場所から離れた場所に
建造された。
  上の案内板のある建物。   裏側
  屋根の部分  
  鍵がある戸   レンゲソウが綺麗でした。
  別の建物