■ 水郷・柳川 舟下り   福岡県柳川市-1    2011.12.07
 柳川市で食事を取ることになっていたがツアーの添乗員から
「短い30分コースの舟下りを体験しませんか?」との提案があり乗船することになった。
 写真を良く見てみると乗船した場所が「うなぎ供養碑」のある所で、
ここから食事どころの「御花」へと向かった。
 船体がオレンジ色なので水郷柳川観光(株)のようです。
 柳川の「柳」を実ながら進みます。
 途中にあった「筑後国主・田中吉政公」の像。
  
柳川は筑後川と矢部川の支流を利して、人工的に開削した掘割(ほりわり)から成る水郷で、
そのそもそもの目的は、柳川城の防備にあった。
  
 柳川城は1500年ごろ、土豪の支城として築かれてから幾つかの変遷を経て筑前の立花城の城主、
立花宗茂が入城。
そして、関ヶ原の役で西軍にくみしたために、戦後に所領は没収、奥州・棚倉(たなくら)へ配流された後、
石田光成を生け捕りした功により田中吉政が柳川城に入る。三十二万五千石の太守となった。
 田中吉政は、これを本城として掘割を開削し、もって城の防備を固めたのである。
  
 田中吉政が水郷の原型をつくった事になるようです。
その田中氏には嗣子が無かったために20年間で改易となり、旧城主の立花宗茂が、
大坂の陣に東軍に属して軍功あったので、柳川城主に返り咲いたのである。
ちと、ややこしい。
 難しい話は別として、舟下りを楽しみます。 時には、狭い橋の下を通ることもあります。
空船が水路を譲ります。
 
 魚とりの仕掛けがあります。
柳川は北原白秋の生誕の地。途中、「待ちぼうけ」の歌碑がありました。
 
 橋の下には、こんなロープが張られています。橋の高さが水面からそんなにも無いため舟を漕ぐ事が
出来ません。
そこで考え出されたのがこれです。船頭さんがロープを引っ張って船を操ります。
 
 さて、船旅は船頭さんの楽しい話や民謡を聞いている内に終わりになりました。
「御花」に到着です。