■ 津和野・山陰の小京都-1   2011.9.24
 「津和野は、山あいに白壁と赤瓦の家並みが続き、西に山城の跡がみえる城下町です」と
パンフレットで紹介されていますが、津和野に向かう車窓からは確かに赤い瓦の家並みが
多く見えます。しかし、ぽつぽつと黒い屋根も見えます。
 ツアーの添乗員がこれに気付き、「何故か情報通(仙台のバスです)」の運転手に聞いてみると、
黒い屋根のお宅は本家、赤い屋根のお宅は分家なのだそうです。
 やがて、白壁が連なる町並み殿町へ到着です。 食事処のお店の方に殿町ガイドをして
いただきました。
 「津和野」の名称は「ツワブキの花が咲く野」から来ているようです。
※下の写真は別な場所(東尋坊)で撮影したツワブキの花です。
   

津和野藩は、古くは戦国大名毛利氏の支配下にあったが1600年に坂崎直盛(なおもり)が
津和野3万石に封ぜられる事になる。だが、1615年の大阪夏の陣で「千姫を助け出せば、
お嫁にやる」との言葉を信じて救出するも約束は破られ他家に嫁ぐことになった。
嫁入りの行列を襲って略奪を企てる「千姫事件」が失敗し自刃、坂崎家は断絶・廃藩になる。
しかし、城下町の形成・町割り、側溝を配し現代の観光要素になっている功績は大きい。
これは、次の亀井氏へと引き継がれて行く。

 その後、亀井政矩(まさのり)が津和野へ転封され明治維新まで続く。
新田開発、コウゾ(楮)・ハゼ(櫨)・ウルシ(漆)の栽培奨励、石見半紙の開発・専売などにより
藩財政を大いに豊かにし発展した。
 このため4万3千石の津和野藩は、優に15万石という経済実力をもつといわれるほどだった。
  
 津和野といえば白壁、なまこ壁、鯉の泳ぐ堀割のある武家屋敷町。素晴しい景観です。