■ 腰越・ 満福寺
 義経が一の谷、屋島、壇ノ浦で次々に平家の軍を
破って1185年に兄・頼朝の居る鎌倉に帰ってくるが
何故か頼朝は鎌倉入りを許さず、ここ腰越の満福寺
に逗留して何とか頼朝の怒りを解こうとします。

 義経が悲劇の末路を辿る事になった原因は色々と
あるようですが、後白河院の策略に利用されたのが
大きな要因と言われています。
平家滅亡の後、頼朝に対抗出来る武将は義経しか
居ないと考えた後白河院は、義経を利用しようとした。
そこで、院は義経に急接近し、官位を与え優遇する。

そんな企みを頼朝は見逃さなかった。
頼朝の許可も得ずかってに官位を受けた時点で逆鱗
に触れてしまったのである。
 権力を保持する為に、源頼朝は一の谷の合戦後、既に、いずれ自分を脅かすかも知れない自軍の有力な貴族
を粛清し始めていた。 これは、いつの世も天下を治めるものの手段である。
たとえ弟であっても、例外では無い。
この辺のところを義経は早く気付くべきであったと言われている。義経の「政治音痴」が悲劇の原因だったようです。

 ここ、腰越で書いた書状が「腰越状」と言われるものです。
要約は、『兄の意思に沿って、平家を打ち破り本来恩賞を給わるべき所、見に覚えの無い嫌疑をかけられ、鎌倉に
入れず本心をお話しする機会も与えてもらえません。ただ亡き父の仇を取る事以外野心は有りません。官位を受け
たのも源氏にとって良い事と思っただけ。どうぞ、一目会って話を聞いてください』というような内容です。
 この、腰越状の下書きを書いたのが弁慶と言われており、書き損じたものがこの寺に保管されています。
↑ 上は、本堂前に有る弁慶の「腰掛岩」と弁慶が持ち上げた「手玉石」、義経の供養碑。
 本堂の内部には、鎌倉彫の技法を使った襖絵が有ります。義経と静御前、弁慶などの場面を物語として表現
しています。
静御前 弁慶の立ち往生