■ 松尾芭蕉ゆかりの地 神田川
   井の頭恩賜公園と江戸川公園、関口芭蕉庵    その3−関口芭蕉庵
 遊び公園からは椿山荘の庭園になり、塀を眺めながら進むと程なく『関口芭蕉庵』に到着です。
 『関口芭蕉庵』の正面玄関。
ネットで関口芭蕉庵を調べている内に『正面玄関の戸は閉じていますが、"左手のくぐり戸"から中に入れます』と
頭にインプットされてしまいました。
 
早とちりの私は、この門の左手にある通用口がそのくぐり戸だと理解してしまいました。
張り紙に胸突坂の脇と書いてあったにもかかわらず、半分だけ読んで、そう思ってしまった訳でして(恥)
この正面の門のくぐり戸は施錠されていたので、今日は休館なのか?  と、一時諦めてしまいました。
 
手前の駒塚橋から外見など写真を撮っているうちに、正面に見える胸突坂が気になり進むと↓ "脇の入口"を
見つけました。
  
もしも、私と同じくらい早とちりの方がいらっしゃるかも知れませんので 写真にピンクの表示をして置きますが
神田川沿いの正面玄関から、向かって左手に回り込んで胸突坂の階段の下の所に入口があります。
 芭蕉が郷里の伊賀から江戸に出て、深川芭蕉庵に住みつくまでの直前(1677年から1680年まで)、現在の
文京区関口で、神田上水(江戸川)の改修工事に携わり、この工事を監督しました。
 神田上水は、天正年間(1573〜92年)、徳川家康の命で大久保忠行が開設したのに始まる上水です。
井の頭の池を水源として、関口、水道橋を経て神田・日本橋・京橋に給水し、総延長約66Kmもあります。
芭蕉は、宝暦期の改修工事に携わりました。
 芭蕉は、工事現場か水番屋に住んだといわれますが、後に、芭蕉を慕う人々が「龍隠庵」(りゅうげあん)と言う
建物を建て、芭蕉を慕う俳人達が集い、いつしか「関口芭蕉庵」と呼ばれるようになったとのことです。
 元の建物は火事や戦火で焼失し、昔の面影を残そうと第2次大戦後に再建。周囲の風情ある庭や池・木立は
往時を偲ばせてくれるそうです。
 静かな庭園。手前のガラス戸の建物(↓)は中に入って休憩できます。
 池の脇には、ここの管理者「関口芭蕉庵保存会」さんにより「古池や 蛙飛こむ 水のをと」の句碑が建立されて
あります。芭蕉の直筆からとられたものを刻んであるそうです。
 更に進み階段を上り詰めると、芭蕉の33回忌の1726年に建てられた芭蕉の木像を納めた芭蕉堂があります。

帰ってから気付いたのですが、
芭蕉の真筆を埋めた「五月雨塚」も有ったはずですが見落としました。
 庭園内には5種類の「芭蕉が詠んだ植物」が有りますが、見つけた案内板は上の二つ。
 ところで、この年の(2010年)3月は、季節外れの大雪が降ったり、訪問時も爆弾低気圧の性で交通機関に乱れ
が出たりの変な天候でした。
 関口芭蕉庵の庭のバショウも雪にやられてしまったのでしょう、とても痛々しい姿をさらけ出していました。
また、椿山荘の敷地にはシベの部分が変化したような「八重の椿」の花が咲いていました。