■ 会津武家屋敷 その1      その2へ
 冬の会津、会津藩松平家譜代の家臣で代々家老職を務めた西郷家・『西郷頼母(さいごう たのも)邸』を復元したのが会津武家屋敷として
公開されています。
会津は戊辰戦争の北の「砦」になった場所だけに悲しい話も伝わっています。

 会津藩主松平家は徳川家の血を引いており、明治維新では徳川側に付きました。
 しかし、動乱の幕末には京都守護職として『天皇家』の住む京都の治安に多いに貢献したのです。 →[新撰組]
ただ、京都において薩長藩の武士に対し厳しい対応を行ったことから薩長藩からは恨まれていました。

 明治維新では、新政府の薩長藩から目の仇にされ京都治安維持の貢献度は考慮されず、『朝敵』の汚名を着せられました。

仙台藩初め東北諸藩に、会津征伐の命令が来ます。仙台藩など諸藩は、会津藩の穏便な措置を願い出ますが聞き入れてもらえず東北諸藩
も、これを不満とし段々新政府への敵対感を強めていきます。[奥羽越列藩同盟]


1868年旧暦9月、会津戦争が始まり最終的に敗れます。少年兵達の悲しい自刃も「会津白虎隊」として良く知られているところです。
 西郷家の養子で柔術家「西郷四郎」像。
小説「姿三四郎」のモデル。小説「ぼっちゃん」に出てくる山嵐の
ネーミングのモデル。
片長屋。武家屋敷の周りに家来を住まわせ警護に当らせた。
 会津名物「会津唐人凧」。   普通は、唐人があっかんべーしている大きな赤い舌が描かれています。
凧の形は、九州地方に良く見られますが本州では珍しい形です。
雪景色の庭も風情が有ります。