■ 蒙古の碑
町並みとは関係ありませんが・・・

『蒙古の碑』と言うのが宮城県仙台市宮城野区燕沢二丁目…善応寺境内にあります。  Map
ここの他、宮城県内に幾つかの板碑が存在していますが碑文から蒙古とは関係ないとされています。

 この善応寺の碑は鎌倉時代1282年の建立と言われ、もと燕沢地内の塩釜街道(県道8号線利府街道)沿いの廃寺・
安養寺跡の門前に建立された。半ば地面に埋まった状態であったが昭和に入ってこの地に移された。

 上部に大きく梵字が刻まれ、その下に28字の本文が4行にわたって刻まれているが、省書が多く文意不明である。
五行目の最後の行は、「弘安第五天(=1282)」とありこれは2回目の元寇の翌年にあたる。
その下には製作者清俊の名が刻まれている。
  
 13世紀初頭、チンギス・ハーンはユーラシア大陸の 東西にまたがる大帝国を建設した。
その孫モンゴル帝国第5代皇帝・フビライはさらなる領土拡張を画策し、南宋と日本も標的にしました。
日本に対しても「拒否するならば兵力を用いる」という強硬な態度で属国になるよう求めてきたが、時の幕府執権の任
にあった北条時宗はこれを無視する態度を貫き、元軍をむかえ討つことを決意します。
  
 元軍は2度にわたり大挙して九州北部に押し寄せてきました。幕府軍は集団戦法を習得していた元軍に多大な苦戦
を強いられますが、二回とも大暴風雨による影響で何とか退けることができました。
この「日本史上最初の国難」とされる2度にわたる元軍の侵攻を蒙古襲来と呼んでいます。
  
この蒙古の碑は1282(弘安5)年、南宋の帰化宋無学祖元が弟子清俊に命じて弘安の役で標没した元軍兵士を追善
させた供養碑として伝えられています。
 疑問としては、何故、ここ仙台に蒙古の碑が有るのか?ですが
@当時、北の守りとして陸奥国府の多賀城(多賀城市)があり、仙台市内若林区に陸奥国分寺・国分尼寺があって
この地が中間地点になること。
A松島が霊場として発展していて、鎌倉とも交流があった。
B蒙古軍に負けて、その蒙古軍の一員として戦に参加した南宋の兵士の慰霊の碑なのですが、社会情勢を考慮し、
当時僻地とされていた東北の地・宮城県に、しかも省字(判読できない字)を彫ってカモフラージュした。
 
そんな風に想像されているようです。
昭和16年に、蒙古の主席・徳王が来仙し、蒙古の碑を見学しています。
徳王が手植えしたと言う松が有ります。
↓下に碑文の拡大写真を載せておきます。