■ 支倉常長の墓参り-伝承地を巡る<伊達武将隊>①     2019.6.23 
 
  支倉常長は何処に眠るか?   「伊達武将隊・支倉常長」さん自らが案内するツアー。

そんなツアーを地元の旅行会社が企画したので参加しました。
   
 ②川崎町 圓福寺のマリア観音と墓

 ③大和町 西風(ならい)の五輪塔ほか

 ④大郷町 支倉常長メモリアルパーク
 
 
   
  支倉常長とは・・・
宮城県南部出身で、秀吉の時代に朝鮮出兵で成果を上げ伊達政宗の目に留まる。
藩内での地位は中級で、万一徳川家康から咎めが有った場合を考慮したようです。

 徳川家康と伊達政宗

家康は・・・
「銀」の効率的な抽出の方法をスペインから得ようとするが上手く行かなかった。
伊達政宗の企画に乗って、成功したらスペインからの技術取得を期待したかも知れない。

伊達政宗は・・・

 ①「遅れてやって来た天下人」と言われるよう、メキシコとスペインとの貿易と支援により
   天下取りを狙っていたという説もある。
   事実、「奥州王 伊達政宗」と書状に記し、幕府が倒れれば自分が日本を治めると記している。。

 ②2011年3月の東日本大震災の400年前、1611年の慶長三陸大地震・津波からの復興のため
   計画されたと言う説が有力視されている。

既に、キリスト教の禁教の流れの中にあって政宗は、家康の了解を得たうえで使節団を送っている。
 
 1613年10月、政宗が建造した黒船・サンファンバウティスタ号は太平洋を2往復した。
 船には幕府・伊達家の者、そして商人など180余名が乗っていた。
   スペイン国王とは謁見できたが、「通商」許可が下りず
常長は、イタリアに向かいローマ教皇の口添えを願います。

 ローマでは、「貴族」の位と部下八名と共に「ローマ市民権」を得ます。
しかし・・・
当初のメキシコとの交易は実現せず、失意のまま、常長は1620年に仙台に帰国。
 
なお、支倉常長が帰国する際、10人の「サムライ」が現地に残り
皆さんご存知の「ハポン姓」を名乗る600人もの方々のご先祖さんになっています。
 帰国して2年後、既に幕府の、キリスト教の禁教令が出ていたことも<今流行りの>「忖度」したかも知れないが
「51歳で病死」したとの幕府への報告がなされた。

何故、墓が何か所もあるか???

幕府には建前上死亡したことにしたが・・・
人知れない地方に、住まわせ、仙台市北部の大郷町では84歳で亡くなったとの説がある。
幕府には「内緒、内緒の話」で有力な墓が4か所存在していますが
私自身は、仙台市の光明寺の墓しか訪問したことが有りませんでした。
   
  ◆サン・ファン・バウティスタ号
  次は、太平洋を2往復した「サンファンバウティスタ号」についてです。

今から406年前、現・石巻市月浦から出帆した船はどんなものだったのか。

 復元された「サン・ファン・バウティスタ号」は、1993年(平成5年)に進水。
テーマパーク「宮城県慶長使節船ミュージアム」(愛称:サン・ファン館)に係留・展示されていた。

 2011年3月11日の東日本大震災の津波により、上の写真の周囲の施設は損壊するも
船自体は何とか持ちこたえた。
ただし、翌月の暴風でマストが損壊しカナダの支援で改修された。
  2017年3月からは、安全の為、内部への立ち入りは禁止され
2020年のオリンピックまでは存続され、いずれ解体される運命にある。
  船尾のキャビン   船長室の支倉常長たち。
  船員の食事の様子の復元   軍艦ではないが、海賊対策に大砲も積んでいた。
   
  ◆ 光明寺   仙台市北山五山
  JR・北仙台駅が最寄り駅になる・・・
仙台市内の、元の城下町の北側の山にある「北山五山」と呼ばれる地域。

 支倉常長が眠ると言う「光明寺」から墓参りスタートです。
   
  ご住職に本堂をご案内いただき「慶長遣欧使節図・支倉常長公ローマ法皇謁見図」(作・浜哲郎画伯)を
拝観しました。
    謁見の様子を説明する支倉常長さん