■ 飯塚の里・医王寺 (福島県福島市飯坂町)
新暦1689年6月18日、文知摺石を見た後、飯塚の里(現在の飯坂温泉のある飯坂町、昔、鯖野。)に向かった。
佐藤庄司の旧館(大島城)を訪ねた後、佐藤一族の石が残る古寺を訪れた。その中でも二人の嫁の石碑が、しみじ
みと思わせる。女であるが健気だという評判が世の中に伝わったものなのだなぁと、袂を涙で濡らしてしまった。
あの中国の故事で有名な堕涙の石碑(※)も遠く中国に行く必要も無いものだ、こんな近くにある。
寺に入ってお茶を求めると、この寺は義経の太刀や弁慶の「笈(おい=背中に背負っているもの)」を残して宝物にし
ている。


ここで一句、『(おい)も太刀も 五月(さつき)に飾れ 紙幟(かみのぼり)』
弁慶の笈も、義経の太刀も五月の端午の節句にかざってくれ、あの鯉幟と一緒に

※堕涙(だるい)の石碑 昔、中国の晋の時代、ヨウコと言う人の徳を称えて石碑を建てた。人々は、その石碑を見て涙を流したというもの。
医王寺 山門。 左、義経の資料や弁慶の笈などがある資料館と杉並木
芭蕉の『笈も太刀も…』の句碑 句碑のある本堂
義経のお手植えの虎尾の松(ハリモミ)は中央の木。 (参考:京都五条大橋の牛若丸と弁慶像)
奥に進むと佐藤一族の墓や顕彰碑等が有ります。 佐藤継信公と忠信公の墓。
ここで、芭蕉を感涙させた「佐藤一族」について解説します。
そもそも芭蕉の奥州紀行は、先人が訪ね歩いたみちのくの歌枕の地を訪ねる事と、若くして奥州の地の露と消えた
悲劇のヒーロー義経の追慕と言われています。
 
飯坂温泉のあるこの地で東北南部を治めていたのが「信夫の荘司」「湯の荘司」と呼ばれた佐藤元治でした。
そのころ、岩手県・平泉にいた源義経が源平合戦に旗揚げした際、その子継信と忠信を同行させます。兄弟は義経の
下で活躍しますが、兄継信は四国・屋島の合戦で主君・義経への矢の盾になって戦死。弟忠信は、源頼朝から追わ
れる身になったとき、京都で義経主従を脱出させる為、義経を装って身代わりで戦死してしまいます。
 
兄弟の母である乙和が悲嘆に暮れているのを見た妻(若桜と楓)たちは、自分の夫が帰らぬ人になった悲しみをこらえ
て、甲冑を身に着け継信・忠信の凱旋の勇士を装い、姑の心を癒したという話が有ります。
 
この気持ちに、芭蕉が感激したというものです。
基治公、乙和御前の墓の傍らにある「乙和椿」。乙和御前
の悲しみが乗り移り、つぼみのままで花を開くことなく落ち
てしまう椿。
 
 
 芭蕉一行は、ここ飯坂温泉の民家に宿を取る。
土間にむしろを敷いただけのお粗末な寝床で、蚤しらみ
雨漏りに悩まされ一睡も出来なかった…としているが、
医王寺での感激の後とて、ゆっくり寝たとは書けずに、そ
の様な表現にしたとの見方が有ります。
写真は、飯坂温泉駅前にある芭蕉像。