■ 信夫の里 (福島県福島市)
 新暦1689年6月18日。夜が明けると、しのぶもじ摺の石を探して、忍ぶの里に行く。遥かな山陰の小里に石が半分程
埋もれていた。村里の子供たちが言うには「昔は山の上に有ったのだけれど行き来する人が麦を荒らして、この石に擦
りつけて試すので、これを嫌がって谷に突き落としたのです。それで、今は石の表面が下になってしまったのです」との
ことであった。
農民としては当然の事かもしれない。

ここで一句。『早苗とる 手もとや昔 しのぶ摺
 目の前で早苗を植える手つきを見ると、昔のしのぶ摺の手つきもあのようであったか。
『信夫文知摺(しのぶもちずり)石』とは、この地が綾形石の自然の石紋や綾形、しのぶ草の葉形などを摺り込んだ「しの
ぶもちずり絹」の産地で、文様をとるためにこの石が用いられたという伝説に基づくものです。
下に半分埋まった面に、その文様があり、そこに絹をあてて色付けをしたとの事ですが今となっては、確かめるすべは
有りません。
写真左が文知摺観音の入り口。右が信夫文知摺石、その石の向うに芭蕉の句碑が有ります。
文知摺観音の入り口に芭蕉像があり、その下に『早苗とる…』の芭蕉自筆の模写句が彫って有ります。
句碑 自筆資料などがある資料館
境内には、正岡子規の句碑等も有りますが、左は「河原左大臣・源融(みなもとのとおる)」の歌碑と、右、源融と現地妻
虎(とら)女の墓。

百人一首『みちのくの 忍ぶもちずり 誰ゆえに みだれそめにし 我ならなくに』で有名な句です。
源融こそが、京の都に「みちのくPR」をしてくれた人物であります。宮城県多賀城とその周辺、塩竃・松島などを有名に
したのも彼の宣伝のお陰ではないかと思います。陸奥国の按察使(あぜち=奈良時代の地方行政官)としてこの地を訪れ
長者の娘「虎(とら)」を見初めます。やがて、源融は京に帰ってしまいますが、もう一度だけでも会いたいと願う「虎」が観
音様に祈願したところ文知摺石の表面に源融の姿が現れたという。石の別名を鏡石とも言われているそうです。
これが、源融と長者の娘「虎」との悲恋物語として有名になっていきます。
さて、表面が鏡のように平らだったのか、絹の染めに使ったように「もじり乱れた文様」があったのか…

もじり石は、その表面にさまざまな草を置き、その上に布を覆いかけて平らな石でバレンのようにして摺ると凸凹に乱れた
模様になって写される。版画のようなものでしょうか。その、もじり乱れたところが「恋の枕歌」として使われました。
 
 丁度、晩秋の頃とて境内には落ち葉敷きの細道が…