■津久毛橋城跡     栗原市 
一ノ関から岩出山を経て山形県側に抜ける途中、曾良日記に、つくも橋の記事がある。
14日一ノ関を立つ。岩ヶ崎より金成へ行く中ほどに「つくも橋」有り。岩ヶ崎より一里半、金成よりは半道ほど。 Map
   
この地は、源頼朝が、海・山・陸の三つのコースで20万の大軍で平泉の藤原泰衡を攻め込んだ時に通ったところ。
当時、この一帯は「つくも(江浦藻)」が生い茂る低湿地帯で、藻を刈り敷き詰めて軍を渡したという。
…下の案内板より抜粋
  
 奥の細道・道標と、『つくも橋城址』からの景観。右上写真の左手、樹木の陰に『つくも橋』がある。
 文字が読めないのではっきりしないが、義経の身代わりとなった
と言う杉目太郎の供養塔らしきもの。

■ 岩出山     大崎市
岩出山町は、伊達政宗が山形県米沢市から移って初めて宮城県に城を構えたところです。
1591年(政宗25才)から12年間、仙台に移るまでここに居りました。「伊達な小京都」として、落ち着いた雰囲気と
綺麗な町並みが楽しめます。
 写真左は外堀の流れ(整備された「学問の道」)から岩出山城址を仰ぐ。
 右は、城址に立つ伊達政宗立像で以前仙台・青葉城に有ったものを移築したものです。
芭蕉と曾良の一行は、岩手県平泉を後にして一関を経て陸奥上街道を南下します。
岩出山側の「上街道」は林の中に入込んでいるため現在の松山街道(陸奥上街道)は、この「上街道」を半月状に残しながら走っています。
写真左は、天王寺一里塚からの旧街道への入り口。産業廃棄物場までは舗装道ですが、その先農家の前から未舗装の山道になっている(右の
写真)。
国道47号(岩出山バイパス=北羽前街道=羽後街道)から、2kmほど陸奥上街道に入ったところにある天王寺一里塚。江戸初期に一里ごとに街道
の両側に土塁を築き塚を置いた物であるが、完全な形で残っている貴重な場所。道路整備の際も上下線を左右に分けて、この塚を残すよう配慮
された。これを南下していくと、岩出山城址の下、現存する日本最古の学問所「有備館」に着く。
   

新暦6月30日、芭蕉一行は、下記の小黒崎と美豆の小島を見学してから宿泊しようと鳴子方面に向かったが、まだ
まだ距離が有ると知り、立ち戻り岩出山の町に入った。
芭蕉一行が宿泊したのは「石坂屋」と言う旅籠。右の写真の奥、白い建物と白い建物の間の現在警察の交番のあるところ付近といわ
れている。その交番の北側に、上の芭蕉立像と町内案内板がありました。