■ 野田の玉川・沖の石・末の松山    多賀城市
 新暦6月24日壷の碑を見た芭蕉一行は、野田の玉川や沖の石を訪ねた。末の松山は、そこに寺を建てて末松山
と呼んでいる。松の木立の間はすべて墓地であって、いつまでも共に生きると言う約束を交わしても、最後にはこの
ようなはかないものだと、人生の無常を感じた。

 
◆参考地図:  おもわくの橋Map    末の松山Map
案内図の、左上が「壷の碑」がある国府政庁跡(JR東北線・国府多賀城駅から約1km)。右端の「野田の玉川」を
見て、右下の「沖の石」「末の松山」と訪ねている。後者は、JR仙石線・多賀城駅より5分程度。野田の玉川は、
駅前を流れる砂押川の写真の奥の橋のところに流入する小さな支流である。
今の、野田の玉川と「おもわく橋」。整備はされているが、「玉川」の面影はもうない。「おもわく橋」は、前九年の
役で安倍貞任が恋人と待ち合わせたという伝説から「安倍の待橋」とも呼ばれている。
 

能因法師:『夕されは 汐風越してみちのくの 野田の玉川 ちどり鳴くなり
…夕方になると、潮風が海のほうから吹いてきて、ここ奥州の野田の玉川では千鳥が鳴いているようだ。
  −新古今和歌集。
西行法師:『ふままうきも みちのにしきちりしきて 人もかよわわぬ おもわくのはし』−千載和歌集
沖の石(沖の井)、住宅地に囲まれた小さな池のなかにある奇岩である。江戸時代には番人が置かれていたと
言う。
右の写真の、右手の民家の上に見えるのが「末の松山」の松。


二条院讃岐:『わが袖は潮干にみえぬ沖の石の人こそしらねかはく間もなし
私の袖は、潮が引いても見えない沖の石の様に、あの人は知らないが、いつも泣いている涙で乾くこともありません(恋歌)
−千載和歌集
その当時から、寺だった場所。お寺さんの後ろにある丘を、末の松山と言い、お墓になっている。
末の松山は丘になっているので、絶対に波は越えないと言う前提を上手く利用して恋歌の枕詞に使われている。


清原基輔:『ちぎりきなかたみにそでをしぼりつつ すえのまつ山なみこさじとは』−後拾遺和歌集
君をおきて あだし心を わが持たば 末の松山波も越えなむ
あなた以外の人を好きになったら、あの末の松山を波も越えてしまう。−新古今和歌集