■芭蕉の心を捉えた人・西行と共に歌枕の地探訪 その1
 西行は1190年旧暦2月16日、満月の夜の今は盛りと咲く桜の下で73歳の生涯を終えた。
  
西行こと佐藤義清(1118年生)は23歳の時、鳥羽上皇の院を守る北面の武士を捨て出家している。その理由は幾つ
か有るようだが失恋が原因だと言う説が有ります。
 西行の歌は、恋と月とそして桜が多いといわれています。
そのうち恋の歌は若い時に歌われたものとすると、恋に憧れる青年・西行が失恋で出家したというのも頷ける。
 
 旅の歌人、花の歌人とも言われる西行。彼ほど桜の花を生涯うたい続けた歌人はいないようです。
現在知られている2000首余りの作品中、最も多いのが桜の花と言われ、桜へかけた情熱は凄いものがある。
西行の歌は、自分の心の赴くまま技巧を使わないために分りやすいのが特徴で、解説がなくてもその歌の情景が素
直に伝わって来るのが魅力と言える。
 西行が初めて陸奥へ旅したのは、1143年の26歳の
時ではないかと言われている。
 その目的は、100年以上も前に陸奥の歌枕の旅をした
能因(のういん)法師の足跡を慕い訪問することだった。
 
 都を旅立ったのは春頃と思われ、白河の関に到着した
のは秋であった。能因が
  
 都をば霞とともに立ちしかど
    秋風ぞ吹く白河の関


と歌ったのに、
 
 白川の関屋を月の漏る影は
    人の心を留むるなりけり


と添えている。
 みちのくの入口、歌枕の地・白河の関。
 宮城県岩沼市の竹駒神社の近くに『武隈の松・二木の松』が有り、芭蕉は5代目の松を鑑賞したようです。
なお、現在の松は7代目だそうです。
  
能因と、西行の訪問した時は現存しておらず、能因が  武隈の松はこのたび跡もなし と歌い、
西行も 枯れにける松なき宿の武隈はみきと云いてもかひなからまし と歌った。
     (能因が残念がっていた二木の松を見たいといっても、とうに松の幹は枯れていた)
 宮城県名取市の、仙台に向かう旧道(県道39号線)沿いに『実方の墓』が有ります。
かの『光源氏』のモデルとも言われる左近衛中将藤原実方は、宮中で自分の歌を馬鹿にした藤原行成の冠をいきなり
叩き落した。運悪くこれを一条天皇に見られてしまい『歌枕、見てまいれ!』と陸奥守に左遷されてしまった。
この近くの笠島道祖神の前を乗馬したまま通り、神罰で落馬して死んだと伝えられている。
農家の脇道を少し入った所に『実方の墓』とされている所があります。
 
西行は偶然この塚に来て、あの実方の墓と知り
 朽ちもせぬその名ばかりを留めおきて 枯れ野のすすきかたみにぞ見る
 (世に名高い実方の墓には、この地特有の「片身のススキ=形見の」がススキだけが供えられている)と歌う。
 『壷の碑(つぼのいしぶみ)』
芭蕉が来たときは苔むして読めなかったと言っている。西行が訪ねたときには、地中の中に眠っていて実物には出会っ
ていない。掘り起こされたのは江戸時代初期でそれまで所在が不明となっていたが歌枕だけは生きていた。
ここで、西行は
 陸奥の奥ゆかしくぞ おもほゆる 壷の碑そとの浜風
  (みちのくにはその奥をもっと知りたいものが一杯有る。壷の碑やら外の浜風やら)
 多賀城(宮城県多賀城市)は、西の大宰府と並び「遠の朝廷(とおのみかど)」と呼ばれ陸奥の国府として724年に
築かれた。
おもわくの橋

 「前九年の役」で、東北一帯を支配していた安倍氏
は滅亡するが、その主人公安倍貞任はこの地の豪族
の娘・おもわくと恋に落ちた。
多賀城から塩釜に向かう古道が「野田の玉川」に架か
っていた橋の袂で逢瀬を楽しんだという。
昔は木橋で、頼りなかったようです。
 
 踏まま憂きもみじの錦散り敷きて
     人もかよわぬおもわくの橋


( 踏むのがはばかれるように紅葉が散り敷かれた
  おもわくの橋は、誰も渡らない)
  
末の松山

 昔、多賀城のこの一帯は大変栄えていたが「猩々」の
血が高く売れることを知った飲み屋の女将が通って来る
猩々を殺そうと企む。これを知った店の下女が可哀想に
思い猩々にそのことを教える。
 猩々は「もし、自分が殺され空が黒くなったら末の松山
に逃げなさい」と教える。
その3日後、東の空が真っ黒になったので一目散に逃げ
た。町は大津波に襲われ壊滅してしまったがその下女は
無事に助かり尼さんになって人々の菩提を弔ったという。

 末の松山は、決して波がこの山は越えられない事から
、あってはいけない、心変わりをしないと言う誓いを詠む
歌枕になった。
  
多賀城市八幡の宝国寺裏の丘に立つ松の巨木は、樹齢
450年といわれています。