■ 俳諧って?

芭蕉の俳句
この方面には全くの門外漢であり誤った記述をして皆さんにご迷惑をかけるかも知れません
が、芭蕉の奥の細道の足跡を訪ねる小さな旅の頁を立ち上げるに際し多少は、「俳諧」とか
芭蕉が確立しようとした「蕉風」=現在の「俳句」の源流とかを簡単にご紹介して置くべきかと
思料し記載しておきます。

五・七・五の音節から成る日本語の定型詩であり、世界最短の詩である俳句は近世に発展
した文芸である「俳諧連歌」、略して「俳諧」から生まれた近代文芸です。「俳諧」の元の意味
は「滑稽」「戯れ」といった意味があるそうで、古くは『古今和歌集』に滑稽な和歌・「誹諧歌」
があるそうです。

室町時代に、和歌の連歌の表現を滑稽・洒脱にして、より気軽に楽しめるようにした文芸が、
「俳諧連歌」、もしくは「俳諧の連歌」と呼ばれ栄えた。

その後、より庶民的な文芸として発展、江戸時代に隆盛し、松永貞徳によって大成された。
貞徳の一門による俳諧連歌は「貞門派」と呼ばれ一時代を築き、堅苦しい正統の連歌をしの
ぐ程の人気を誇った。
その作風は、万葉集や古今集などの古典の和歌を題材に、この中で使われている言葉を切
り出して別な意味を持つ5・7・5の俳諧に(茶化して)作り変えるような言葉遊びであった。

 松尾芭蕉は1644年、伊賀上野(現 三重県上野市)に松尾家次男として生まれ幼名を金
作(きんさく)、後の本名を宗房(むねふさ)と言った。10代末から伊賀付侍大将の嫡子・藤堂
良忠に仕えた。
良忠は貞門派の俳諧を嗜み、芭蕉もこの縁で若くして俳諧の道に入っていった。
ところが、頼りにしていた良忠が25歳の若さで急逝した。次の主君は俳諧に全く興味を示さ
ず、出世の道が途絶えた事から伊賀を離れ京都で6年ほど(詳細不明)俳諧の修行を積む。

 芭蕉は新天地を求め、江戸に下った。
初め貞門派の指導をしていたが、江戸の人達の心が古典作品から言葉を持ってくる「古風」
に対して、それに囚われずに自由に言葉を使う新しい表現の「新風」に興味が移り始めてい
る事を知り芭蕉もそちらに移った。

新風は「談林派」と呼ばれ、連歌師でもあった西山宗因を筆頭に、浮世草子を成立させた井
原西鶴らが参画していた。ここでも芭蕉は頭角を現し「桃青」を名乗る。
談林派が十年ほどの短い最盛期を終えると、松尾芭蕉が「蕉風」と呼ばれる作風を示した。

松尾芭蕉がその芸術性を高め、なかでも単独でも鑑賞に堪える自立性の高い発句、すなわ
ち地発句を数多く詠んだ事が後世の俳句の源流となる。

また、どういう風にして作られてきたか?
と言うと
元々「連歌(れんが)」はその名の通り複数の人間で和歌の上句と下句を繋げていくものであ
ったので、古くは貴族の邸宅や有力寺社に集まって読まれていた。
その流れは、庶民にも広がった芭蕉の時代まで続いている。
   
特筆すべきは、身分制度のあった当時、侍も町人も一緒に集まりそれを楽しんだという背景
も知っておくべきかも知れません。

■ 蕉風って?
芭蕉の俳句−2
 談林派の徘諧師として相当の地位を得た芭蕉であるが、次第に「これでいいのか?」と言う
心境になっていく。

 1680年、芭蕉37歳の時に、俗臭を避けて深川の芭蕉庵に移り住み芭蕉と号する。
当時は、かなり『郊外』であり寂れた場所であった。
 ここで、芭蕉なりの徘諧の姿が形作られてくる。
それは、単なるパロディ句や、言葉遊びの域を脱した現代の我々が良く知る『俳句』の原型と
言うべきものが出来上がったのでしょう。

39歳の時に大火で芭蕉庵が焼失し、このころから人生に対する考えが大きく変わり、旅(行
脚)して過そうと考えるようになる。
   
  野ざらし紀行(1684-1685年)
芭蕉(41歳)は、自分自身の悩みの払拭と作風を完成するために旅に出る。前年に亡くなっ
た母親の墓参を兼ねて関西方面への旅であった。この旅で芭蕉独自の『蕉風(しょうふう)』
確立の第一歩を踏み出しました。

我々に馴染みのある次のスミレの句を詠んでいるが、それはパロディでも言葉遊びでも無く
、私どもが知る『俳句』のようです(私見。専門家で無いので、すみません)。
  山路来て何やらゆかしすみれ草
    スミレの花を良く観察すると「人面」のような文様があり誰かさんにも似ているような・・・
 
芭蕉の、この作風は旅の旅先で思ったとおりの評価を得て東京深川へと戻る。
 
 その翌年、深川の芭蕉庵に門人を集め徘諧の会を催す。

 芭蕉は、下の句、『蛙(かわず)飛び込む水の音』を示し、上の句はどんなのが良いかと尋ね
る。門人たちは、先ず『蛙』は鳴く物と決まっていたので、飛び込む表現にビックリした。そして、
蛙には「常識的な」上の句でしょうと山吹の花を唱えたが、芭蕉が『古池』を示したので更に
ビックリした。

ここに、あの有名な一句が世に知られる事になる。

  古池や 蛙飛び込む水の音

 歴史を刻んできた『古池』、そこに今の命を持った蛙が動いて静寂を破る。
聞く者、見る者の解釈次第でいろいろな解釈の仕方があるでしょうが、そこに宇宙観すら感じ
られるかも知れません。
『不易流行』 変わらぬもの(不易)と変わるもの(流行)の理念が感じられます。
  
      …この項目記事は、平成20年7月放送NHK『その時歴史は動いた』を参考にしています。

  芭蕉はこの後、『鹿島紀行』『笈の小文』『更級日記』と旅し、奥の細道紀行へと続くのです。
      
  これらの体験を通じ蕉風俳諧の思想と表現が形成され「風雅の誠」を追求して、俳句そのもの
  を芸術の域にまで高めて行った。